大阪再発KEN記
両本願寺界隈 〜近代から100年先を見据えて〜 |
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明治から大正、昭和へ・・・。近代への歩みを進める大阪。北と南の両御堂界隈にも、歴史の波が押し寄せていた。
まず、鳥羽伏見の戦いでは、征夷大将軍仁和寺嘉彰親王が、津村別院を本営として進軍。
また明治6年(1873)には大阪府病 院が別院に移転。医療の近代化にも寄与することとなった。
明治21年(1888)には相愛女学校 (相愛中学校・高校の前 身)が開学。
その後、大正後期から昭和初頭にかけて、大阪は「大大阪」と呼ばれた。
大阪市は人口・面積・工業出荷額において日本第一位、当時の東京市をしのぐ世界有数の商工都市であり、活気にあふれていた時代である。
第7代大阪市長の關一市長を中心に都市計画が進められ、御堂筋の拡幅工事、大阪市営地下鉄御堂筋線(梅田-心斎橋間)の建設など都市基盤が築かれた。
このうち、梅田から難波までの南北全長約4km、幅44mの御堂筋の道路計画は、当時としては突拍子もなく「飛行場でも作る気か」と揶揄されたこともあったという。
しかし 沿道の受益者負担による整備費の捻出、電線を地下に配置してイチョウ並木を植え、沿道建物の高さ制限(百尺制限)による景観整備は、100年後を見据えた計画。
完成後は、大阪の大動脈としての機能を果たしてきたといえる。前後して開通した地下鉄御堂筋線も、開業時は1両編成での運転だったが、需要の増加に備え、当初からホームは12両編成を見越した長さで建設されたという。
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昭和20年(1945)、大阪大空襲により、両御堂を始め多くの建物が焼失した。そんな中、戦災を免れたものもあった。堅固なつくりかつ美しい芝川ビル、優雅な意匠が特長の綿業会館などは、レトロビルとして、今なお美しく重厚な存在感を放っている。
難波神社は、社殿は空襲で全焼したものの、ご神木のクスノキは生き残り、今では樹齢400年超。現代のパワースポットとなっている。
やがて両御堂の社殿再建を始め、戦後復興が始まる。その後の高度成長期時代にはビルが次々と建ち、金融機関が多く集積したこともあり、御堂筋は活気のあるビジネスゾーンとなった。
その後バブル崩壊を経て、美しい景観を保ちながらの御堂筋再生への議論も始まった。平成7年(1995)には高さ制限が60mにまで緩和、沿道ビル低層部にカフェやショールームが出店するなど、新たな賑わいが見られるようになった。
今では海外高級スポーツカーやアメリカのEV車(電気自動車)のショールームが目を引く。また、世界的なラグジュアリーブランドのショップも軒を連ねている。
平成21年(2009)には御堂筋イルミネーションを開催。御堂筋の並木がイルミネーションで彩られる美しい風景は大きな反響を呼び、今も多くの人が訪れる。
なお、大阪市では「御堂筋将来ビジョン」を策定、車中心から人中心のストリートへと転換に向けて、一部側道を歩行者空間にする試みが始まり、さらに発展が期待される。
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