大阪再発KEN記
生國魂神社界隈 〜由緒ある社に芸能の華開く〜 |
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天王寺区にある生國魂神社。 正式名称は“いくくにたま” だが、親しみを込めて”いくたまさん” と呼ばれている。
社伝によれば、神武天皇が上町台地の難波碕に国土の平定・安 泰を願い、国土の守護神である生島大神足島大神をお祀りされたのが始まりという。
「日本書紀」には大化元年(645)孝徳天皇即位前紀にも記されており、由緒ある延喜式内大社である。
戦国時代、織田信長の石山合戦の際に焼失し、天正11年(1583)、豊臣秀吉の寄進により現在の場所に遷座したと伝わる。
この時、本殿は本殿と幣殿を一つの流造で葺きおろし、正面に千鳥破風、すがり唐破風、千鳥破風の3つの破風を据えた、神社建築史上例のない「生國魂造」様式を用いたという。19世紀に大坂で活躍した戯作者・暁鐘成の「浪華の賑ひ」には、「石鳥居は谷町の辻にあり。祭神生魂命大国主命なり。
本地堂の本尊は薬師如来にして、聖徳太子の御作と聞こゆ。大師堂は本地堂の左に並ぶ。歓喜天の宮は北の方にあり、近世本社の後辺に舞台を建営ありて、瞻望(眺め)ひとしほによし」と記されている。
上町台地の断崖である西側には絵馬堂が作られ、大阪 湾から六甲山系まで見渡せたという。西鶴の俳諧興行、近松の「生玉心中」など文芸とのつながりも深い土地で、 江戸時代の庶民にとってはお詣りして芸能も楽しめる格好のスポットだったに違いない。
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ここでは、昭和から令和の現代に至るまでの川崎界隈を紹介していきたい。造幣局の工場では、現在も貨幣の製造をしているが、キャッシュレス化の昨昭和20年(1945)、第二次世界大戦の空襲で生國魂神社の社殿は消失。
その後本殿を再建したが、翌年のジェーン台風で再び倒壊。昭和31年(1956)、現在の本殿に建て替えられた。
度重なる災厄を乗り越えての本殿再建は、戦後 復興の象徴ともなった。この社殿再建を寿ぎ、能が奉納されたのが大きな反響を呼び、翌昭和32年(1957)から定例化されるようになった。これが「大阪薪能」である。
毎年8月 11・12日には境内に特設の能舞台をしつらえ、雅やかな薪能が行われ、多くの人が観覧に訪れる。
生國魂神社は、他にも4月11日に家造祖神社の「例祭」、6月30日に厄災・病を払う「大祓式」、7月11・12日に「いくたま夏祭」、9月の第1日曜日と前日に開催される「彦八まつり」など、多彩な祭りが四季折々に行われている。
このうち「いくたま夏祭」は、大阪三大祭の一つながら戦後は中断を余儀なくされたが、地域住民が立ち上がり、地域の祭として伝統を受け継ぎ、今日に至る。
また上方落語の祖・米澤彦八にちなんだ「彦八まつり」は、平成2年(1990)に「彦八の碑」を建立した翌年から開催。上方落語家が一堂に会し、賑やかに行われている。
地域住民、芸能関係など、多くの人々に親しまれてきた生國魂神社。境内には浄瑠璃神社や井原西鶴や織田作之助の銅像、米沢彦八の記念碑などが並び、今日も多くの人が「いくたまさん」に足を運んでいる。
※コロナ禍のため、令和2~3年 (2020~2021年) の 「大阪薪能」、「彦八まつり」は中止となりました。
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