大阪再発KEN記
川崎橋界隈 〜江戸時代の蔵屋敷から近代工場へ〜 |
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江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立した後も、課題は山積していた。中でも混乱した貨幣制度の立て直しは急務だった。統一通貨を製造する、そのための近代的造幣工場の建設地には大阪が選ばれた。明治元年(1868)年のことである。
「水利を考え、広大な面積が必要」との理由で、旧川崎村にあった旧幕府大坂破損奉行所(大坂城の維持管理を行う)の材木置場跡地を始めとする一帯が建設地に選ばれた。敷地は約18万平米で、現在の造幣局の2倍もの広さだった。こうして、かつて材木蔵や米蔵、蔵屋敷が建ち並んでいた川崎村界隈は、大きく変貌を遂げることになる。
建物の設計監督は英国人のT.J.ウォートルスに依頼、煉瓦造りからペンキ塗りまで、日本人職人は初めてながら熱心に取り組んだ。明治3年(1870)には工場を竣工、翌年には創業式を行う。また造幣寮には英国人のT.W.キンドルを 招聘し技術を学び、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始した。
明治5年(1872)、明治天皇が行幸し造幣寮応接所を行在所とし、これを「泉布観」と命名された。翌年には銅貨鋳造工場が完成。なお造幣寮は、明治10年(1877)に造幣局と改称している。
当初は多くの外国人の指導に頼っていたが、日本の職人・技術者も技術の習得と経験を重ね、次第に日本人の手によって貨幣鋳造ができるようになる。こうして、かつて大坂城のお膝元であった川崎橋界隈は、日本近代化への歩みにおいて、重要な役割を担っていくのである。
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ここでは、昭和から令和の現代に至るまでの川崎界隈を紹介していきたい。造幣局の工場では、現在も貨幣の製造をしているが、キャッシュレス化の昨今、通貨の流通減とともに、製造量は減りつつある。その分、高い技術力を生かして、平成19年以降、10ヶ国14種類の外国貨幣の製造を行っている。造幣博物館では、貨幣のこれまでの歴史や、記念硬貨などを見学することができる。※1
造幣局と言えば桜が有名だが、この桜は明治の初めに藤堂藩の蔵屋敷(泉布観の北側)から移植されたもの。品種が多いばかりでなく、珍しい里桜が集められていた。これを市民にも見てもらおうと始まったのが、造幣局の桜の通り抜け。明治16年(1883)に始まった通り抜けは、今や大阪の春の風物詩となっている。※2
また、かつて川崎の渡しのあったところには、昭和53年(1978)に歩行者・自転車専用の川崎橋が架けられた。当時としてはめずらしいマルチファン式の斜張橋で、中央の高い塔から何本ものケーブルで吊り下げた姿は、とても美しいと評判だ。そして橋の上からは、水の都ならではの情緒溢れる風景、大阪城も眺めることができ、夕景、夜景を楽しむにもおすすめの場所である。
この橋の対岸、網島側には、藤田美術館や太閤園がある。「曜変天目茶碗」など国宝9件、重要文化財53件を含む、約2000件のコレクションを有しているのが藤田美術館。若い頃から古美術への造詣が深かった実業家の藤田伝三郎は、特に茶道具に対する鑑識眼も優れていた。当時、日本の美術品が海外へ流出することに危機感を覚えた伝三郎は「国の宝の散逸を防ごう」と蒐集に乗り出したという。
その志は嗣子らが受け継ぎ、昭和29年(1954)に藤田美術館を開館させた。時を経て建物の老朽化のため、このほど建て替えをし、新しい建物が竣工した。令和4年4月(2022)にリニューアルオープンの予定である。受け継いだ美術品を次世代へとつなぐ、新装美術館のオープンが待ち遠しい。
※1:令和2年(2020)11月現在、中止されている
※2:令和2年(2020)は中止された
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