大阪再発KEN記
追手門界隈 〜江戸幕府に再建された大坂城〜 |
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今も大阪のシンボルとして知られる大阪城、その始まりは16世紀に遡る。明応5年(1496)、浄土真宗の蓮如上人が上町台地の北端に坊社を建てた。その北側に流れるのは淀川...つまり、京都と大坂を水路で結ぶ交通の要衝でもあった。
やがて寺は力をつけ、大坂石山本願寺として一大勢力となっていくのだが、その場所に目をつけたのが織田信長である。10年余り争った末、石山本願寺はこの地を去る。信長の死後、勢力を握った豊臣秀吉は天正11年(1583)、ここに大坂城の築城を始める。大天守は外観5層、饒瓦や軒丸瓦などに黄金をふんだんに用いた。本丸、二の丸の規模は現在の大阪城とほぼ同じで、2km四方におよぶ惣構を備えた大城郭だったという。
しかし慶長3年(1598)、秀吉死去の後、豊臣家は急速に力を失っていく。真田幸村が加勢し、真田丸の戦いで奮闘した大坂冬の陣、さらに夏の陣をへて豊臣家は滅亡、大坂城は廃墟同然となる。
徳川家康が天下を平定後の元和5年(1619)、大坂城主に任ぜられたのが松平忠明である。まず取り掛かったのは大坂城再建で、多くの大名に普請を割り当てた。大名は徳川家への忠誠心を示そうと、石垣にも見事な巨石が使われたという。忠明は他にも、元三の丸のあった場所を町民に開放し市街地を作ったり、戦で中断していた道頓堀を完成させるなど、大坂の町の復興にも力を尽くした。
寛文5年(1665)の落雷により天守を失ったものの、大坂城は長らく西日本における江戸幕府の拠点であった。ただ、忠明の後は城主を置かず、城代と配下のわずかな武士で政を行った。そのため大坂には、自由な町人文化と経済が発展していったのである。
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幕末、14代将軍徳川家茂が大坂城中で病没。後を継いだ最後の将軍徳川慶喜は、大坂城と二条城を舞台に活躍するも、慶応4年(1868)幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れると、大坂城から逃走。その混乱の中で本丸が出火、江戸幕府の終焉とともに城内の建造物はほとんど焼失した。
明治維新以降、大阪城跡は陸軍の軍用地として整備され、市民の出入りは長く禁止されていた。そんな中、昭和3年(1928)当時の市長、関一が天守閣復興を提案。市民から寄付の申し込みが殺到し、わずか半年で目標額に達した。
復興天守閣は、当時最新の工法である鉄骨鉄筋コンクリート造りに決定。地上55mの超高層建築は、市民の熱意を後押しに、昭和6年(1931)11月に竣工した。ほどなく第二次世界大戦が始まり、昭和20年(1945)の空襲で大阪城も大きな被害を受ける。米軍の接収から返還後は、外堀を含む広域が公園となった。この復興にも募金活動など官民挙げての協力により、修復・再建工事が行われ、広大な史跡公園として整備された。
現在、大阪城公園には市民の森、記念樹の森といった広場や野球場、西の丸庭園などがあるほか、梅林、桃園、あじさい・うつぎ園、桜などに四季折々の花々が咲く。かつて市民が熱意をもって再建に力を注いだ大阪城公園は、今、人々の憩いの場となっている。。
また平成25年度(2013)より、地下にある豊臣時代の石垣を掘り起こして公開しようと「大坂城 豊臣石垣公開プロジェクト」が始まり、整備が進められている。一方、大阪城公園の北は、元大阪砲兵工廠があった場所。
長らく更地のままだったのが、昭和30年代後半(1960年~)に再開発計画がスタート。
昭和61年(1986)に大阪ビジネスパーク(OBP)として誕生した 。約26haの敷地にはTWIN21、IMPなどの高層オフィスビルのほか、西日本最大規模の大阪城ホール、クラシック音楽専用のいずみホールなど文化施設があり、まさに大阪の新都心にふさわしい。
また阪神高速道路を中心にした道路網、京阪京橋駅、JR京橋・大阪城公園駅などの鉄道網も整備され、大阪経済の牽引役となっている。
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