大阪再発KEN記
住吉大社界隈 〜知られざる幻の首都・住吉〜 |
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かつて海のそばに建ち、海の守り神であった住吉大社。
その近くに帝塚山古墳があるように、この辺りは古くから発展した地であった。
そして多くの人に親しまれている住吉大社は、実は南北朝の一時期、南朝の行宮(あんぐう)(天皇の仮の御所)として使われていた。
ここでは、歴史の表舞台にあった住吉大社とその周辺スポットを巡ってみる。
鎌倉時代の半ば、天皇が足利尊氏方(北)と吉野方(南)に並び立ち、争ったのが南北朝時代である。
後醍醐天皇(南朝)の次の後村上天皇(延元4年(1339)〜正平23年(1368))は、住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿に移り、ここを住吉行宮とした。
長慶(ちょうけい)天皇(南朝三代)もここで即位する。
いずれはここを首都に・・・・しかし後亀山天皇(南朝四代)が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器を渡したことで南北朝時代は終わりを告げ、住吉が都となることはなかった。
時代は下って明治の終わり頃から、周辺には鉄道が開通する。
帝塚山は交通の便がよく見晴らしのいい住宅地として、市内の豪商たちが邸宅を建てて移り住むようになった。
帝塚山学院ができたのも同じ頃である。
帝塚山を含む聖天山地区は昭和8年(1933)、風致地区に指定された。
これまでに創られた美しい都市景観の保全を目的にしており、緑豊かな高級住宅地は文教エリアとして、現在までその環境が守られている。
住吉大社~帝塚山界隈は、今も散策すると、そこここに歴史の足跡を見ることができる。
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住吉大社が海の神さまを祀る神社なら、住吉津(すみのえのつ)は、大阪湾にある港として、交易・外交には欠かせない存在だった。
ここでは、古くから発展した住吉大社・住吉津周辺の歴史やまちの発展についてたどってみたい。
そもそも「住吉」の地名は平安時代頃まで「すみのえ」と呼ばれており、「墨江」「清江」とも表記された。
遣隋使や遣唐使は、住吉大社で住吉大神に祈りを捧げた後、住吉津から出発し、難波津を経由して隋・唐に向かったのだという(難波津からの場合もあった)。
天平5年(733)の入唐使に贈った歌には「そらみつ大和の国 青丹よし平城の都ゆおし照る難波に下り 住吉の御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 遣はさる(後略)」と歌われている(万葉集)。
それから時代は下って平安時代。
京の都に住まう公家・貴族たちが和歌山県の熊野本宮大社へ参詣するようになった。
室町時代以降は武家や庶民も参詣するようになり、その折に通った道が熊野街道である。
同じころ、住吉大社は歌人としても有名な津守氏の影響もあり、和歌神として広く知られるようになり、住吉詣でがさかんになっていた。
住吉大社近くには熊野街道のほか、紀州街道も通っている。
街道沿いには寺院が整備されるようになり、特徴ある石造物も多く作られた。
旧粉浜村の6本の道が交差する「六道の辻」に立つ閻魔(えんま)地蔵もそのひとつ。
戦国時代、天文7年(1538)の作とされ、地蔵が閻魔大王に化身したもので、六道救済の地蔵尊としての側面もあわせもつ。
こうして絶え間なく人々が行き交い、寺院の周りにはお店も増えて、住吉大社周辺は大いに賑わった。
特に戦国時代が終わり、太平の世になった江戸時代以降は、多くの人々がお参りをして暮らしの平安を祈り、かつ観光も楽しんだ。
そうした流れは近現代へと受け継がれ、今でも住吉大社周辺には老舗が軒を連ね、初詣はもちろんはったつさん(初辰参り)などには多くの人が訪れる。
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