大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2017 第34号>

浪花百景「玉江橋(たまえばし)」


国員(くにかず) 画(大阪城天守閣蔵)


玉江橋(たまえばし)

堂島川に架かる玉江橋は、元禄元年(1688)の堂島新地開発に伴い新設された。

当初は堀江橋と呼ばれ、後に玉江橋と変更されている。橋の南北には蔵屋敷が並び、物資運搬のため盛んに利用されたという。橋の南側は諸藩自慢の名松の枝が川面をお85秀麗な地で あり、反りの大きなこの橋を北から登ると正面(南)に四天王寺の五重塔が望めることでも有名で、その風景はしばしば画題に取り上げられた。近くにある久留米藩の蔵屋敷には火除け水天宮が勧請され、毎月5日の縁日には参詣客でにぎわったという。

橋は明治18年(1885)の大洪水で流失、復旧するも後の大火で類焼。昭和に入り新設、改修工事を経て、現在は浪速の名橋50選にも選定。夜には美しくライトアップされている。


大阪再発KEN記

堂島(どうじま)〜天下の台所、大阪の足跡を辿って〜


堂島(どうじま)〜天下の台所、大阪の足跡を辿って〜

諸国の米や特産物などの集散によって経済の中心地となった「天下の台所」大坂。そに賑わいの足跡は、堂島川、土佐堀川(旧淀川)周辺に今も残っている。 江戸時代、大名諸藩は年貢米や特産品を換金する必要があり、水運を利用して物資を運搬するのに便利な大坂に持ち込んだ。そのため諸藩の蔵屋敷が堂島川沿いに建てられるようになり、17世紀後半にはその数は100を超えたという。
大坂には百万石を超える米が持ち込まれ、諸藩の特産品、たとえば土佐の鰹節、播磨の塩、伊予の蝋といった品々も流通した。こうした売買では多くの大坂商人(あきんど)が活躍。中でも豪商・淀屋は、豊臣秀吉の淀川堤防工事で財をなした初代に続き、2代目が米市を開設。これが後に堂島米市場として、全国の相場の基準ともなった。今の淀屋橋の辺りに、広大な屋敷を構えていたという。
蔵屋敷が建ち並び、活気にあふれていた堂島川周辺。かの福沢諭吉が生まれた中津藩(大分)の蔵屋敷も、この辺りにあった。川沿いにビルが建ち並ぶ現在、周囲にその面影はないが、玉江橋の北詰近くに、中津藩蔵屋敷跡を示す石 碑があり、福沢諭吉生誕の地の碑が建てられている。
玉江橋より上流、淀屋橋の南には、福沢諭吉の師である緒方洪庵が天保9年(1838)に開いた適塾跡がある。ここは西洋医学をはじめとする研究で業績を残しただけでなく、近代日本に欠かせない多くの人物を輩出した学問所で もあった。

堂島(どうじま)〜天下の台所、大阪の足跡を辿って〜
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大阪故郷(ふるさと)16 〜中之島を中心に、大阪は今も発展を遂げて〜

明治維新から大正、昭和を経て平成の現代に至るまで...大阪は、経済の一大中心地であるだけでなく、文化・芸術の発信基地でもある。ここでは、そのどちらもが花開いた堂島川沿いを中心に、近代から現代までを辿ってみたい。
まず、明治10年(1877)、日本銀行が設立されて間もなく開設されたのが日本銀行大阪支店。今の場所に移転したのは明治36年(1903)で、辰野金吾設計による本格的洋風建築は時を経ても美しく、3面の外部の壁面と内部の重要な部分は保存されている。それより東側、明治37年(1904)に建てられたのが大阪府立中之島図書館だ。美しい建物は国の重要文化財であり、今も多くの人々に親しまれている。
かつて物流の大動脈であった川、中でも大阪の中心を流れる大川の下流域、堂島川周辺は、蔵屋敷が並び活気のあるエリアだった。今、そこには意匠を凝らした高層ビルや建物と緑の木々が共存し、洗練された雰囲気が漂う。
たとえば平成元年(1989)に開館し、「宇宙とエネルギー」をテーマに様々な展示研究を行っている大阪市立科学館や、現代美術を発信している国立国際美術館も堂島川の中州・中之島にある。 また堂島川沿いの阪大病院跡地は「水都OSAKA αプロジェクト」として街づくりがスタート。平成20年(2008)、堂島リバーフォーラム、ABCホール、堂島クロスウォークなどを擁する「ほたるまち」としてオープンし、水都大阪ならではの美しい都市空間を創出している。
さらに現在、大阪市では「大阪と世界の近現代美術」をテーマに佐伯祐三など大阪ゆかりの画家、モディリアーニらの作品約4900点のコレクションを展示する新美術館構想が進行中。国立国際美術館や東洋陶磁美術館とはまた違う、魅力あふれる美術館は、平成33年度(2021)の開館をめざして準備中だ。新美術館ができれば、玉江橋から中之島周辺は、より一層文化・芸術ゾーンとして人々が集い、発展することが期待されている。

大阪故郷(ふるさと)16 〜中之島を中心に、大阪は今も発展を遂げて〜

なにわびと

福沢諭吉(ふくざわゆきち) 〜学問の道を邁進した大阪生まれの啓蒙思想家〜

福沢諭吉といえば「学問ノススメ」の著者、慶應義塾大学の創始者として知られているが、実は大阪にもゆかりの深い人物である。 天保5年(1834)、中津藩(大分県)藩士として大坂の蔵屋敷に勤めていた福沢百助に、5人目の子が生まれた。福沢諭吉である。父は学問があり、すぐれた人物だったが、下級武士のため出世はできぬまま、諭吉が1歳8ヶ月のとき急死。母は子ども達を連れて中津へ戻った。諭吉は14歳で、儒学者白石照山の塾に入り漢学を学び、19歳で長崎へ行き蘭学を学ぶ。さらに兄三之助の勧めで大坂にある緒方洪庵の適塾に入門。洪庵を慕って来る門下生は多く、皆が切磋琢磨する中でも、諭吉はとりわけ熱心に勉学に打ち込み、塾頭まで務める程であった。
安政5年(1858)、25歳の時、藩命により江戸へ。中津藩中屋敷の小さな長屋で、諭吉は蘭学塾を開く。これが後の慶應義塾の起源である。翌年、出かけた横浜で外国人にオランダ語が通じないことにショックを受け、独学で英語を学び始める。万延元年(1860)、幕府の軍艦「咸臨丸」に従僕として志願しアメリカへ渡航、翌年には幕府の通訳としてヨーロッパ諸国へ。帰国後「西洋事情」を発行し、日本人にヨーロッパ文化を紹介した。
やがて、徳川慶喜が大政奉還し、江戸幕府が崩壊。時代が大きく変わっていく中で明治5年(1872)、諭吉は「学問のススメ」を発行。「人は生まれながらに平等といわれているが、現実には大きな差がある。その差は、学問を修めているかどうかの違いである」と始まる書は、新しい時代の国民に向けての啓蒙書であり、実に340万部以上が売れるベストセラーとなった。
「慶應義塾」のほかに「専修学校」(後の専修大学)、伝染病研究所などの創設に尽力した福沢諭吉は、一方で「明六雑誌」などで文明開花の啓蒙活動にも力を注いだ。明治34年(1901)2月、病のため慶應義塾内の自邸にて逝去。68歳であった。福島区福島1丁目1、玉江橋北詰には、福沢諭吉生誕の碑がある。

福沢諭吉(ふくざわゆきち) 〜学問の道を邁進した大阪生まれの啓蒙思想家〜

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