大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2016 第33号>

浪花百景「天保山(てんぽうざん)」


芳雪(よしゆき) 画(大阪城天守閣蔵)


天保山(てんぽうざん)

 大阪市港区の天保山、今は海遊館などのある人気スポットだ。標高4.53mで、国土地理院発行の地形図に表示される山としては、日本で2番目に低い。

 江戸時代、安治川など川の流砂が河口にすい堆積し、廻船の航行に支障が出るようになったため、幕府の命により、天保2年(1831)から2年間「御救大浚(おすくいおおさらえ)」の大工事が行われた。その残土を盛り上げてできた山である。

 船の出入りの目印になったことから「目印山」と命名されたが、後に、山が築かれた時代名から「天保山」と呼ばれるようになった。

 山すそにはマツやサクラなどが植えられ、景勝地のひとつとして、大いに賑わったという。手前には、水深が深く航行可能な航路を示す「澪標(みおつくし)」が描かれている。

 ちなみに澪標は、大阪市章のモチーフにもなっている。


大阪再発KEN記

澪標(みおつくし)〜商都大阪の象徴として、大阪市の市章として〜


澪標〜商都大阪の象徴として、大阪市の市章として〜

 大阪港の歴史は古く、約1400年前までさかのぼる。それまで栄えていた難波津や住吉津の海港が衰退したため、安治川上流の川口波止場に運上所をつくり、慶応4年(1868)大坂港として開港したのだという。

 江戸時代、大坂は西国支配の拠点として整備される。京都・奈良とは淀川・大和川水系で結ばれ、瀬戸内海を通って中国四国・九州とも結ばれていた。「天下の台所」とも称され、商都大坂は大いに賑わった。

 時代は下って明治。当時の大阪港・川口波止場は河口から約5km上流にあったため。大きな船の出入りに不向きといわれるようになる。そこで外国貿易にも対応できる近代的な大阪港をと、大阪市のプロジェクトとして築港公債で費用捻出する計画で安治川河口・天保山周辺で築港工事が始まったのが明治30年(1897)のことだ。

 同年に大阪港築港事務所長に西村捨三、元大阪府知事兼市長が就任し、安田財閥(安田善次郎)の支援を受ける等事業費確保に苦労し以降、約32年もの時間をかけて完成されたのが、現在の大阪港の礎となっている。

 ちなみに、大阪に市制が施行されたのは明治22年(1889)、市章が制定されたのは明治27年(1894)である。船が往来する時に航行可能な澪(みお)との境界に設置された澪標(みおつくし)は、長く人々に親しまれていたことから、市章の意匠にもなった。

 大阪港の築港事業は、途中頓挫したものの、景気回復により利用が増大、一帯は多数の倉庫や工場、住宅が立ち並び、活気を見せるようになった。昭和4年(1929)。大阪港第1次修築工事が完成した頃には臨港鉄道の側線が通り、赤レンガ倉庫のある築港一帯は、商工業都市・大阪の表玄関として、大いに賑わったのである。

大阪故郷(ふるさと)15 〜港区天保山・港湾事業拠点から観光エリアへ〜

 かつて大阪港と安治川・尻無川などの水運によって、経済と文化を発展させてきた、水都大阪。その昭和〜平成の現在はどうなっているのだろうか。ここでは、現在の天保山界隈について見ていきたい。

 かつて水運で栄えていた安治川・尻無川は、これまでにも台風などの度、高潮で大きな被害を受けて来た。昭和36年(1961)の第二室戸台風では、港区だけではなく、西区や福島区にも浸水被害が及んだため、防潮水門が尻無川・安治川に設けられた。いざという時に高潮を防ぐアーチ型の水門は、美しいフォルムで、大阪の観光スポットを巡る水上バスでも、見どころの一つとなっている。

 また、尻無川水門近くには、甚兵衛渡船場がある。大阪には、古くから川の各所に渡船場があった。橋の架設や道路の整備に伴って、その数は次第に減ってきたが、今も大阪市内では甚兵衛渡船場を含む8か所で運航されており、地域の人々の足として、また観光客などにも利用されている。橋の代替えということで乗船料は無料。タイムスリップして、旅人気分で渡船に乗ってみるのもいいかもしれない。

 さて、天保山は今や海遊館、大型商業施設「天保山マーケットプレイス」、大観覧車などのある一大レジャースポットだ。広場ではイベントやパフォーマンスが行われ、家族連れやカップル等、毎日大勢の人々で賑わっている。

 天保山の南、築港エリアには、赤レンガ倉庫がある。終戦直前、港湾・工業地帯は何度も激しい空襲にさらされ、周囲は焼け野原となり、倉庫も屋根が一部被害を受けた。戦後、倉庫は輸入貨物の保管等に使われ、戦後復興と高度成長を支えてきたが、海上コンテナが主流になり、物流拠点は南港のコンテナ埠頭に移った。

大阪市では、この貴重な建物を含む情趣あふれる港風情を資源として活用するプロジェクトを立ち上げ、平成27年(2015)にはクラシックカーミュージアムやレストランが入居する商業施設として再スタートしたところだ。他にも赤レンガ倉庫の周辺には、商船三井築港ビル、隣接して天満屋ビルなど、大正〜昭和初期の貴重な建物が残っていて、往事を偲ぶことができる。

大阪故郷(ふるさと)14 〜上町台地・大阪の歴史と文化の発祥地〜

なにわびと

直木 三十五(なおきさんじゅうご) 〜多芸多才、破天荒で短い生涯を駆け抜けた小説家〜

 直木賞の名称は誰しも知っているが、その名を冠した直木三十五については、意外と知られていない。大正後半〜昭和初期に活躍した大衆作家にして評論家の直木三十五(本名は植村宗一)は明治24年(1891)、大阪市南区内安堂寺町にある古着屋の長男として生まれた。貧しい中、父は苦労しながらも息子を学校に通わせたという。

 浪人生活などを経て、晴れて早稲田大学英文科予科入学。同級には西条八十(詩人・作詞家)、坪田謙治(児童文学作家)などがいた。

 しかし、学費が払えず大学を除籍となり、その後は早稲田美術研究会記者、大日本薬剤師会書記などを経て、大正7年(1918)、トルストイ全集刊行会(のち春秋社)を創設。トルストイ全集はヒットしたものの、他の雑誌や出版社の経営は失敗に終わった。

 転換期が来たのは大正12年(1923)。「文藝春秋」の発刊に加わり、毎号辛口の世相批判や文壇ゴシップ等を発表し、人気を呼んだ。同年に起きた関東大震災後に帰阪、この頃から大衆小説を書き始める。昭和4年(1929)「週間朝日」に連載した「由比根元大殺記」、翌年から新聞に連載した「南国太平記」などで、一躍流行作家として地位を確立する。ちなみにペンネームの直木は、本名の植の字を2つに分けたもの、31歳から年齢を名前にして、三十五で止めたのだとか。

 時代小説や時局小説、随筆とジャンルも幅広く、1日に60枚もの原稿を書くなどして、多くの著作を残した。同時に病気や事業の失敗、借金も抱え、昭和9年(1934)、病を得て43歳の若さで死去。友人の作家菊池寛の発案により、死の翌年、直木賞が設立された。

 多才にして破天荒、多くの友人に愛された直木三十五。その出生地近く、中央区安堂寺町2丁目、榎大明神の横には「直木三十五文学記念碑」が建てられている。

關 一(せき はじめ) 〜「先見の明」を持ち近代都市大阪の礎を作った人物

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