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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2015 第32号> |
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浪花百景「筋鐘御門(すじがねごもん)」
国員(くにかず) 画(大阪城天守閣蔵)
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豊臣秀吉の時代から今日まで、大阪のシンボルであり続けている大阪城。天守閣等は大坂冬の陣・夏の陣で焼失したが、寛永6年(1629)に再建され、その美しい姿は、数々の名画のモチーフともなった。
これは江戸時代末期、大阪の名所を浮世絵にした「浪花百景」の1枚である。当時、外堀と旧大和川の間に三の丸があり、左側にある筋鐘御門は、三の丸への出入り口だった。
現在の大阪城公園・京橋口を出て少し北の辺りである。ここは鴫野村(しぎのむら)の弁財天(べんざいてん)に詣でるには近道となるため、四の日、九の日には、庶民の通行も許されたのだという。
その後、明治始め頃に旧大阪城三の丸に大阪砲兵工廠が作られ、筋鐘御門は、その正門として使われていたという。第二次世界大戦末期、爆撃により破壊され、今はない。
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大阪再発KEN記
大阪城〜太閤さんの頃から大阪のシンボル〜
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大坂城は、天下を平定しつつあった豊臣秀吉が、大坂(石山)本願寺跡に天正11年(1583)に築いた城である。その美しさは三国無双と称えられ、周辺は商いの町として大いに賑わった。
慶長3年(1598)に秀吉が62才で没した後、大坂冬の陣、続く元和元年(1615)夏の陣を経て、時代は名実共に徳川の世となる。
二代将軍秀忠の命により、大坂城は寛永6年(1629)に再建されたが、寛文5年(1665)年に落雷で天守を焼失、さらに幕末、鳥羽伏見の戦いの後、建物のほとんどが焼失した。以来、大坂城は長く天守閣のないままであった。
時代は下って大正時代、周辺の公園整備計画が持ち上がったとき、当時の大阪市長・關 一(せき はじめ)が、天守再建を提案。市民や企業、多くの人の思いが寄付となり、昭和6年(1931)、史上三代目となる天守閣が再建された。
終戦後、昭和23年(1948)から、全城が史跡公園として再整備されることになり、城内の古建造物の修復など、官民挙げて整備の取り組みが行われた。さらに平成7年〜9年(1995〜97)の「平成の大改修」では、外壁や金箔などが修復されたほか、耐震補強などが行われた。天守閣内の施設も一新、さらに充実して国の登録有形文化財となった。
平成27年(2015)は大坂夏の陣から数えて400年。大坂城は今も昔も大阪のシンボルであり続けている。
※江戸時代までは「大坂」、明治時代以降は「大阪」の表記で統一している。
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上町台地は大阪市のほ中央、東西約、2〜3km、南北約12kmに位置する丘陵地である。北は大阪城付近から、南は住吉区・住吉大社付近まで。はるか昔、大地の一部が隆起してできた台地で、旧石器時代から人が住み、歴史の先駆けたる要所でもあった。ここでは、古(いにしえ)から近代に至るまでの上町台地にある歴史スポットを紹介しよう。
まずは難波宮(なにわのみや)。大阪城公園の南、法円坂一帯で飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮という宮殿が置かれてことが発掘調査で明らかになり、現在は史跡公園として、整備が進められている。大阪城公園内に位置するのは豊國神社(ほうこくじんじゃ)である。
豊臣秀吉、秀頼、秀長を奉る神社は、出世開運の神様として知られている。大阪城築城により、天王寺区生玉に還座したのが生國魂神社(いくたまじんじゃ)だ。
日本総鎮守の神社でいくたまさんの名で親しまれている。そして、その北にあるのが高津宮(こうづぐう)。貞観8年(866)創建と伝わる社は、古典落語「高津の富」「高倉狐」などの舞台であり、古くから町人文化の中心地として賑わっていたという。
このように、古くからの歴史スポットがある上町台地に、豊臣秀吉は大阪城築城と併行して城下町の建築を進めた。大阪城から四天王寺・住吉大社の門前町、さらには堺に結ぶという壮大なもので、秀吉の野望は途中で潰えたが上町台地の西側、島之内・船場・堀江はその後開発され、市街地も広がっていく。
近代に視点を移すと、大阪城の北には造幣局(ぞうへいきょく)がある。明治4年(1871)に創設された造幣局は、画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始、近代工業と文化の興隆に重要な役割を果たし、大阪市が我が国商工業の中心として隆盛した要因ともいわれている。
明治44年(1911)には動力を電化するために敷地内に火力発電所も竣工している(現・貨幣博物館)。
そして、昔、豊國神社のあった中之島には、大阪市中央公会堂がある。赤レンガの壁に青銅のドーム屋根が美しい建物は、大正7年(1918)年に完成後、コンサートやオペラなどが開催され、大阪の文化の発信地となっている。
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なにわびと
關 一(せき はじめ) 〜「先見の明」を持ち近代都市大阪の礎を作った人物〜 |
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大阪城、御堂筋。大阪市営地下鉄。現代の大阪にはなくてはならないこれら全てに関わった人物がいる。社会政策学者・都市計画学者であり、第七代大阪市長を務めた關一である。
關は明治26年(1893)高等商業学校(元一橋大学)を卒業、4年後には早くも母校の教授となり、明治43年に法学博士号取得。社会政策論や都市計画論の気鋭の学者として注目を集めていた。
その頃、大阪では第六代市長の池上四郎が都市問題の専門家を探していた。「大阪を大きく伸ばすために、交通、工業政策に明るい人を助役に迎えたい」。そこで關に白羽の矢が立ったのだ。
突然の話だったが、「大阪の空気は東京より遥かに自由・・・」(關一著「大大阪の現代及び将来」より)と考えた。大正3年(1914)から助役として大阪市に迎えられ、大正12年、50歳で第七代大阪市長となる。
商工業の中心地ながら、近代都市としての機能が乏しかった大阪で、關は数々の都市政策を掲げ、実行する。中でも、わずか5.4m幅だった御堂筋を43.6mに広げる拡幅計画に、当時は反対する人も多かったという。
さらに昭和元年(1926)、地下鉄網を放射状に広げる「高速度交通機関計画」を発表。7年後には、梅田〜心斎橋間(3.1km)が開通した。
また、昭和天皇の即位を祝う記念事業として天守閣再建を提案、市民の寄付金を募った。わずか半年の間に150万円(現在の750億円に相当)が集まり、昭和6年には地上55m、5層8階の天守閣が266年ぶりに甦った。
他にも公営住宅の整備、大阪商科大学(現大阪市立大学)の開設など、数々の実績を重ねたが、昭和10年(1935)、63歳で死去。多くの市民がその死を悼み、天王寺公園で営まれた葬儀には、8万人の市民が参列したという。
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