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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2013 第30号> |
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浪花百景「道頓堀角芝居」
歌川 国員(うたがわ くにかず) 画
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道頓堀の南側、戎橋から日本橋の間は「芝居側」と呼ばれ、歌舞伎、あやつり、からくりなどの芝居小屋が
密集する浪速随一の繁華街であった。道頓堀が完成した10年後の寛永2(1625)年、安井道卜が南船場に
あった芝居小屋をこの地に移したのが、芝居の街としての道頓堀のはじまりで、承応2(1653)年に芝居名代
五株が公認され、戎橋南詰から東に浪速座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場、いわゆる「道頓堀
五座」がつくられた。いくつかの芝居小屋は近代に引き継がれたが、映画館、演芸場などになるものもあった。
現在では「五座」はすべてなくなった。角座は橋を南へ渡った角にあったため「角の芝居」と呼ばれたが、
その橋、太左衛門橋は木橋の趣のまま今も住時の風情を伝えている。
(「特別展 浪花百景ーいま・むかしー」大阪城天守閣編集)より
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大阪むかし再発見記(1)
〜赤い灯・青い灯 道頓堀〜
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生粋の大阪人がほろ酔い気分になると、ついつい口ずさんでしまう「道頓堀行進曲」。
これまでさまざまな歌手がレコード化し、大阪のテーマソングと言ってもいい楽曲です。
初めて世に出たのは、昭和3(1928)年、世界恐慌の前年のこと。元々は、女優・岡田嘉子一座が道頓堀の松竹座で興行した同名寸劇の劇中歌でした。
カフェーに働く女給の恋愛を描いたストーリーだったので、女給たちに大いに受け、盛んに歌われたそうです。岡田嘉子も連日舞台がはねたら近所のカフェーで客といっしょに
「道頓堀行進曲」を合唱したとか。楽曲は大ヒットし、劇は映画化され、道頓堀は全国的な知名度を得ることになりました。
今や道頓堀は巨大看板と食い倒れの街ですが、当時はカフェーとジャズの街。上海からやってきたジャズが流行し、道頓堀にはカフェーが立ち並び、ジャズが演奏されました。
やがて楽団ブームが起こり、高島屋や三越などの百貨店だけでなく、うなぎ屋のいずもやまでもが「出雲屋少年音楽隊」を結成。その第一期生ひは服部良一がいました。
彼は、「道頓堀界隈の酒場やダンスホール、街角にはジャズ音が溢れ、ジャズ発祥の地、ニューオーリンズのようだった」と語っています。
また、「美人座は戎橋の北東詰を宗右衛門町へ折れた掛りにあり、道頓堀の太左衛門橋の南西詰にある赤玉と並んで、その頃大阪の二大カフェであった。
赤玉が屋上にムーラン・ルージュをつけて道頓堀の夜空を赤く青く染めると、美人座では二階の窓に拡声機をつけて「道頓堀行進曲」「僕の青春(はる)」「東京ラプソディ」
などの蓮っ葉なメロディを戎橋を行き来する人々の耳へひっきりなしに送っていた。」と織田作之助は「世相」の中で描写しています。
ネオンが川面に揺れるカフェーで、ジャズの調べを聞きながら芸術家や作家が語り合う・・・・新しい文化を生み出す素地が道頓堀にはありました。
時代は移れども、この水の流れには、そんな気質が今もなお脈々と伝わっているに違いないのです。
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水の都といえば、思い出すのがイタリアのヴェネチア。狭い水路を行き交う三日月型のゴンドラの中、ゴンドリエーレ(ゴンドラ漕ぎ)が唄うカンツォーネに耳を傾ける・・・・・水の都には、なんともいえない風情がありますね。
大阪も立派な水の都。江戸時代には「江戸の八百八町、京の八百八寺、浪華の八百八橋」というくらい大阪には橋が多く水運が発達していました。大阪が東京を抜いて日本最大の人口を誇る都市となった大正末期から昭和初期の「大大阪時代」、近代建築と伝統建築が入り混じる華やかでモダンな街となりましたが、その当時も堀川が街を縦横に流れていました。
戦後、急激に近代化が進む中、堀川は埋め立てられて道路と変わり、橋も無くなり、ビルなどは川を背にして建てられていきました。みんなが「水」を忘れようとしていたのです。
最近「水都大阪」のイメージを復活させようという動きが大阪のあちらこちらで出て来ました。特に、道頓堀は「水都」を象徴する貴重な堀川。ここから「水都大阪」を発信しようと、さまざまなプロジェクトが実施されています。
80年ぶりに付け替えられた戎橋は、中央に円形の小公園を設置。立ち止まって川面を眺めたり、写真撮影を楽しんだりできると評判上々。道頓堀の川岸と直結された遊歩道「とんぼりリバーウォーク」もあります。赤い灯、青い灯を眺めながら夜の散策を楽しむのも粋なもの。船に乗れば、川から街の眺望も広がります。日本橋、相生橋、太左右衛門橋、戎橋、道頓堀橋、新戎橋、大黒橋、深江橋、浮庭橋の9つの橋をくぐるクルージングが体験できます。
多くの人の目が道頓堀という水の流れに、向けられるようになってきたのです。近い将来、大阪はヴェネチアみたいな楽しい「水の都」になってほしいものです。
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なにわびと
織田作之助 〜道頓堀逍遥〜 |
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大阪出身の作家は数あれど、大阪のことを最も愛したのは「織田作」の愛称で親しまれている織田作之助かもしれません。
彼は、大正2(1613)年、現在の天王寺区上汐の仕出屋の長男に生まれました。(今年は、生誕100周年ということで、さまざまなイベントが開催されます)。
旧高津中学から三高へと進んだ彼はスタンダールの影響を受けて、小説家を目指します。昭和13(1938)年、処女作『雨』で文壇の注目を集め、14年には、代表作となる『夫婦善哉』を発表しました。戦後は、『土曜夫人』の連載などで活躍。坂口安吾らと並んで「無頼派」として将来を期待されるも、22年、結核により35年の短い人生に幕を下ろしました。
たった7年間の作家生活の中で書かれた五十数編の短編小説の中には、大阪人の暮らしの機微とともに道頓堀界隈の様子が事細かに描かれたものがたくさんあります。
たとえば、『夫婦善哉』では主人公の柳吉と蝶子のうまいもん巡りの様子が詳細に描かれ、『アド・バルーン』では、主人公の少年が継母に連れていってもらった大人の街・道頓堀の様子が生き生きと綴られています。
実際、織田作は道頓堀界隈によく出かけては、その風情や情緒、グルメなどを大いに楽しんでいたようです。
戦中戦後の一瞬を一気に駆け抜けた文字やキラ星が讃える大阪。彼の小説を読みながら、道頓堀散策を楽しむのも“大阪の粋”といえるでしょう。なお、お墓は天王寺区城南寺町の楞厳寺にあり、墓碑の平面には藤沢桓夫と吉村正一郎の手で作之助の生涯が記されています。
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