なにわびと
与謝蕪村 〜毛馬生まれの偉大な俳人・画家〜 |
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松尾芭蕉・小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人、同時に俳画の創始者であり、正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことで知られる与謝蕪村は、享保元年(1716)に摂津国東成郡毛馬に生まれた。
毛馬は北東から南西に流れてきた淀川が湾曲して南に向きを変える東側、淀川の堤に取り囲まれたのどかな田園風景の農村だった。淀川はここで東西に分岐し、本流は大阪市中を通って、大阪湾へと注ぐ。
両親は正式な結婚ではなかったためか、母は蕪村を産んだ後、子を父の実家に残して故郷丹後与謝に戻り、蕪村12歳の時に病没した。絵は、幼時の頃から池田の桃田伊信に手ほどきをうけた。20歳前後で江戸に下り、京都に住まいを移した後も大坂へは足を踏み入れなかった。60歳の時に大坂・天王寺の有名な料亭「浮瀬」で浪華の文人墨客らと盃を傾け、句を吟じたが一度も毛馬には帰っていない。 |
与謝蕪村生誕地・句碑
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春風や 堤長うして 家遠し(春風馬堤曲)
さみだれや 大河を前に 家二軒
なの花や 月は東に 日は西に
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蕪村の代表作であるこの3首も、淀川の光景を詠んだものである。自身の出自や両親についてほとんど語ることのなかった蕪村だが、40代の書画の落款を見ると、雅号蕪村の頭に必ず「東成」や「淀南」、毛馬の堤を意味する「馬塘」の文字を付けている。いうまでもなく、与謝の姓は母の出身地から名付けたものだ。萩原朔太郎が「子守唄の哀切な思慕」と指摘した蕪村の心は、終生郷里毛馬の堤をさ迷っていた。
蕪村が生まれたのは、松尾芭蕉没後22年。芭蕉を「漂泊の詩人」というのに対して、蕪村は「籠居の叙情詩人」と対比されるが、芭蕉の旅はいつも故郷伊賀で暖かく迎えられる旅であり、蕪村こそが故郷を喪失した漂泊の人生だつたのではあるまいか。
毛馬橋を東に渡って左折、散歩道をすこし行った淀川堤防上に蕪村の真蹟を拡大した「春風や・・・」の句が刻まれた碑、生誕地碑や詳しい説明碑が建っている。
(参考文献:三善貞司編「大阪人物辞典」清文堂発行)
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