大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2012 第29号>

浪花百景「今宮蛭子宮」


芳瀧(よしたき) 画


今宮蛭子宮

 「商売繁昌じゃ笹もってこい」のかけ声で著名な今宮戎神社の十日戎は、大阪の年頭最初の祭礼で、

 1月9日の宵戎から11日の残り福まで、毎年約100万人の参拝客で賑わう。今宮は中世今宮浜と呼ばれた漁村で

 戎神は豊漁をもたらす神として信仰されたが、四天王寺西門前の浜市と結びつき市神として祀られてから商売

 繁昌の神として信仰を集めることとなった。十日戎は、元禄年間(1688〜1704)頃には現在の形態を整えていたと

 いわれる。

(「特別展 浪花百景ーいま・むかしー」大阪城天守閣編集)より


大阪再発KEN記(13) 松葉 健

〜1月9.10.11日 えべっさんの日〜


1月9.10.11日 えべっさんの日

大阪の人は正月が済んだあと、十日戎で福をもらいに今宮の戎さんへお参りするのが恒例になっている商人
が多い。去年の福笹と新春の福笹をとり替えるのが商売人の心意気みたいなもので商売繁昌の笹が年中、
神棚の横にあった。
私は堺筋の日本橋五丁目で生まれ、戦時中に立ち退きになり新世界へ転居、戦災で焼けたが、その後、
元の所へ復興して現在に至っているが戎さんとは勝手に懇意にして貰っている。
福あめ売りも地元PTAで参加させていただいた。
さて今年はどんな年になりますやら・・・。
新しいカレンダーは新春の元気をくれるだろう!

大阪故郷(ふるさと)11 〜今宮戎神社界隈〜

「明日からえべっさんやで。えべっさん、今年こそホンマ頼んまっせ!」大阪の人々が近所のおっちゃんの如く親しみをこめて呼びかける神様のお祭り・・・。それが「十日戎」である。 大阪人の生活にしみこんだ新年の行事だ。

1月9日の宵戎から残り福と呼ばれる11日まで約100万人が訪れる今宮戎神社の創建は西暦600年。聖徳太子の四天王寺建立に当たり、同地西方の守護神として鎮斎されたと伝えられる。鯛に釣竿を持つ、その姿からもわかるように戎様は、本来漁業を司る神様であり、四天王寺西門に立った浜の市の守り神として奉斎された。やがて貨幣経済の発達とともに商売繁昌・福徳円満をくまなく授けてくれる神様へと変化した。

庶民のえびす信仰が広まったのは豊臣時代。豊臣秀頼は片桐且元に社殿の普請奉行を命じたと伝えられる。この頃より大阪市街が発達し、大阪町人の活躍が始まる。江戸期に入ると、大阪は商業の町として繁栄し、今宮戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになった。元禄時代には今日と同じような祭礼となり、明治には雑喉場の魚市場・材木商組合・苧麻商組合・漆商組合・金物組合などが講社を結成し、ひときわ賑わった。

十日戎の3日間は境内に「年の初めのえべっさん、商売繁昌で笹もってこい」の掛け声が響きわたり、40人の福娘が福笹を授ける。「笹もってこい」とは本来、参詣者が持ち込んだ笹に吉兆と呼ばれる縁起ものの小宝を付けた風習の名残である。吉兆は銭叺・銭袋・末広・小判・丁銀・烏帽子・臼・小槌・米俵・鯛などを束ね、野の幸・山の幸・海の幸を象徴したもの。参拝者は、この吉兆を付けた笹を肩に、新年の恒例行事を終えた安堵感を感じながら家路につく。

十日戎の陰に隠れているが、7月22・23日は夏祭「こどもえびす祭」。夏の盛りに人工雪のスロープが子どもたちに人気だ。

大阪故郷(ふるさと)11 〜今宮戎神社界隈〜

なにわびと

与謝蕪村 〜毛馬生まれの偉大な俳人・画家〜

 松尾芭蕉・小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人、同時に俳画の創始者であり、正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことで知られる与謝蕪村は、享保元年(1716)に摂津国東成郡毛馬に生まれた。

毛馬は北東から南西に流れてきた淀川が湾曲して南に向きを変える東側、淀川の堤に取り囲まれたのどかな田園風景の農村だった。淀川はここで東西に分岐し、本流は大阪市中を通って、大阪湾へと注ぐ。

両親は正式な結婚ではなかったためか、母は蕪村を産んだ後、子を父の実家に残して故郷丹後与謝に戻り、蕪村12歳の時に病没した。絵は、幼時の頃から池田の桃田伊信に手ほどきをうけた。20歳前後で江戸に下り、京都に住まいを移した後も大坂へは足を踏み入れなかった。60歳の時に大坂・天王寺の有名な料亭「浮瀬」で浪華の文人墨客らと盃を傾け、句を吟じたが一度も毛馬には帰っていない。

大塩平八郎 〜窮民救済、幕藩体制を揺るがす〜
与謝蕪村生誕地・句碑


  春風や 堤長うして 家遠し(春風馬堤曲)

  さみだれや 大河を前に 家二軒

  なの花や 月は東に 日は西に

蕪村の代表作であるこの3首も、淀川の光景を詠んだものである。自身の出自や両親についてほとんど語ることのなかった蕪村だが、40代の書画の落款を見ると、雅号蕪村の頭に必ず「東成」や「淀南」、毛馬の堤を意味する「馬塘」の文字を付けている。いうまでもなく、与謝の姓は母の出身地から名付けたものだ。萩原朔太郎が「子守唄の哀切な思慕」と指摘した蕪村の心は、終生郷里毛馬の堤をさ迷っていた。

蕪村が生まれたのは、松尾芭蕉没後22年。芭蕉を「漂泊の詩人」というのに対して、蕪村は「籠居の叙情詩人」と対比されるが、芭蕉の旅はいつも故郷伊賀で暖かく迎えられる旅であり、蕪村こそが故郷を喪失した漂泊の人生だつたのではあるまいか。

毛馬橋を東に渡って左折、散歩道をすこし行った淀川堤防上に蕪村の真蹟を拡大した「春風や・・・」の句が刻まれた碑、生誕地碑や詳しい説明碑が建っている。

(参考文献:三善貞司編「大阪人物辞典」清文堂発行)


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