大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2010 第27号>

浪花百景「八軒屋夕景」


国員(くにかず) 画


八軒屋夕景

 八軒屋は、大川(旧淀川)に架かる天満橋と天神橋の中間南岸の地名。

 ここには京都と大坂を行き来するさまざまな船の船着場があり、船頭・馬子・旅宿の客を集める声や乗客

 たちが口論する罵声など、昼夜をとわず人々の喧噪につつまれていた。ちなみに、「東海道中膝栗毛」の

 弥次さん喜多さんを乗せた三十石船は、京都から大坂までを半日で、大坂から京都までは丸一日で航行した。

 明治9年に大阪-京都間に鉄道が開通すると船着場の役割は急速に低下し、衰えた。

(「特別展 浪花百景ーいま・むかしー」大阪城天守閣編集)より


大阪再発KEN記(11) 松葉 健

<通天閣再建・初めての福豆まき>「昭和32年2月・入口前にて」


モダン大阪の頃

昭和31年10月・通天閣が再建され、その翌年、32年の2月1日に節分の福豆まきが催された。
あれからもう52年も過ぎた。
福豆まきは、最初、護摩供養と福豆まきを玄関前で行った。見物人で大賑い。
その後、毎年各界著名人を招いて祈願の豆まきが続けられている。
花菱アチャコや、清川虹子、作家の藤沢桓夫、秋田實、将棋の熊谷八段。など・・・。
41年の丙午の年は火災が多いというので大阪市消防局長。
昭和48年は「不況を笑いで吹きとばせ」というので落語の松鶴、仁鶴など招いて、その年の福招来を祈願した。
通天閣のてっぺんから豆まきする風景は、もうご存知の方は多い。
豆はパラシュートにぶら下って、ふわりふわりとおりてくることもあった。
「福は内!」「鬼は外!!」と、わが家でもやりますょ

大阪故郷(ふるさと)9 天満橋〜八軒家はまあたり

「天満橋からお人形投げた、背のこいさんお人形投げた・・・いんでこー、いんでこー」と、当時19歳、清純派俳優の吉永小百合さんが歌う「天満橋から」がヒットしたのは、今から45年前の昭和39年のこと。

満々と水を湛えた大川の風情と、なにわの情緒が歌い込まれたこの小唄を口ずさめる人も今はもう年配だろう。大阪で万国博が開かれた昭和45年には、天満橋は交通渋滞を緩和するため、橋の上にもう一つ、新しい橋が載る形で架けられ、現在の珍しい重ね橋となった。

天満橋がハレの日を迎えるのは年に2度。春の造幣局桜の通り抜けと、真夏の天神祭り。溢れんばかりの大勢の見物客が橋を埋め尽くし、欄干には花見のぼんぼり提灯や祭り提灯が飾られる。川面に青空がくっきりと映る秋の天神橋は、上流の川崎橋にOBPなどのビル群、右岸の南天満公園の緑、下流の中州・剣先の噴水を左右に見やりながら渡る。頬に当たる川風が心地よい。冬は顔面に吹きつける川風の寒さに、首をすくめながら急ぎ足で通勤の人々が渡ってゆく。

平成20年3月、大川左岸に川の駅・八軒家船着場が開業した。京・大坂間を三十石船が行き来した江戸時代の八軒屋船着場は、水上バスやいろんな船が発着し、水都を巡るクルーズ観光の起点として甦った。

昨年夏の「水都大阪2009」に登場した川床「北浜テラス」から食事をしながら川を眺める人、川岸に整備されたプロムナードをのんびりと散策する人、船上から周遊する人、橋上で立ち止まり川をのぞきこむ人ー。天満橋・八軒家浜は時を経ても変わらぬゆったりとした川の流れの岸辺で、水都大阪を愛する多くの人々の訪れを待っている。

大阪故郷(ふるさと)8 渡辺橋〜玉江橋へ、中之島西部の今昔

なにわびと

竹本義太夫ー浄瑠璃の代名詞「義太夫節」の元祖

 中央区日本橋1丁目の千日前通に国立文楽劇場が完成したのは昭和59年のこと。昨年で開場25周年を迎えた。文楽は人形遣い、三味線、語りの義太夫節が三位一体となる古典芸能で、現在の様式をつくった近世文楽は大阪がその発祥地である。「この世のなごり、夜もなごり、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜・・・」義太夫節の第一人者であり、人間国宝でもある竹本住大夫さんの語る「曾根崎心中」は絶妙の節回しだ。

義太夫といえば、関西では浄瑠璃の異名である。その名を残す竹本義太夫は、慶安4年(1651年)、大坂・天王寺の一農家に生まれた。大坂浄瑠璃の重鎮、井上播磨掾の高弟清水理兵衛に見出され、清水理太夫と名乗って27歳で初舞台を踏んだ。理兵衛を義太夫の出会いの逸話が残っている。天王寺、安居神社のそばで料理屋を営んでいた清水理兵衛の耳に近所の畑から浄瑠璃を語る声が流れてきた。それがなんとも素晴らしい、声量豊かな声である。だれが語っているのだろうと理兵衛が外へ出てみると、これが鍬を持った年若いお百姓で、名を尋ねると「五郎兵衛」という。
理兵衛にすすめられプロの道に入った五郎兵衛は理兵衛から「理太夫」という名をもらう。またたく間に播磨風の浄瑠璃を身につけた理太夫は京都の宇治加賀掾一座に入り、ここで座付作者・近松門左衛門の知遇を得る。

貞享元年(1684年)に大坂に戻ったのを機に名を竹本義太夫と改め、道頓堀で竹本座をつくる。旗揚げ公演で近松の「世継曽我」を上演し、このヒットで、たちまち義太夫の名は大坂の町に知れわたった。35歳のときである。

以来、近松とのコンビは死ぬまで続き、空前の大当たりとなった「曾根崎心中」などを生んだ。

正徳4年(1714年)63歳で没。墓は天王寺区大道1丁目の超願寺にある。

竹本義太夫ー浄瑠璃の代名詞「義太夫節」の元祖
竹本義太夫
竹本義太夫ー浄瑠璃の代名詞「義太夫節」の元祖
竹本義太夫の墓(超願寺)

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