|
浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2008 第25号> |
|
浪花百景「天満天神地車宮入」
一養斎 芳瀧(いちようさいよしたき) 画
|
氏地(うじち)の町々や天満青物市場・堂島米市場の仲間達らが出した地車(だんじり)は、鉦(かね)や太鼓で大層賑やかに囃(はやし)しながら天満の町中
をめぐり、くじ順に従って次々と大阪天満宮の境内に入った。
この地車宮入は天神祭宵宮(よいみや)のハイライトであったが、地車曳行(えいこう)は幕末頃から衰え、明治29年(1896)には最後に残った一台が天満青物市場から奉納された。以降は、天満宮境内に飾り付けられたこの「三ツ屋根地車」の上で地車講によって地車囃子の奉納が続けられている。(「特別展浪花百景ーいま・むかしー」・大阪城天守閣編集より)
今も昔も、商都大阪の文化的シンボルとして市民に親しまれる天満の天神さん(大阪天満宮)の創祀は、平安時代後期の天歴3年(949)。その50年前、政敵藤原時平らの謀(はかりごと)により九州太宰府に左遷され、同地で非業の死を遂げた菅原道真の霊を鎮める「天神信仰」として祭祀したのがはじまりである。
以来、歴史上有数の文人・公家・武将等のかかわりが深く、学問の神様としての信仰を集め、戦国〜江戸初期の争乱の中で盛衰を繰り返した。
江戸時代に入り、大坂の町が発展するにつれ、氏地の町の人々に支えられ、天神祭は次第に盛大になっていった。「摂津名所図絵」は「数百の楼船(ろうせん)大河を埋め・・・市中は棚車(だんじり)・俄(にわか)狂言昼夜かぎりもなくありて浪華無双の賑ひなり」と記す。
明治以後は、幕末と維新の政変、たび重なる戦没とともに歩んだが、昭和20年の戦災では奇跡的に被災を免れ、昭和24年には、それまで中断していた船渡御(ふなとぎょ)を復活、昭和28年から船渡御を大川上流に遡るコースに変更して、今日の隆盛を見ることとなった。
|
|
大阪再発KEN記(9) 松葉 健
<モダン大阪の頃>「十日戎」
|
|
えべっさんは漁業の守り神だから釣り竿と鯛を手に持っている。福笹につける吉兆の鯛は豊漁を祈るもので商売の神さまに通じているようだ。
むかし、大阪湾の周辺は漁業や海運業が多かったので盛運を祈ることからお祀りするようになったとか・・・。
海の幸が庶民の生活に大きくかかわっていた頃から商売繁昌の守護神として信仰されるようになった。
僕は、今宮戎神社の近くで生まれ育ったので初詣と十日戎はなじみが深い。
昭和五十二、三年頃から南地の花街芸者を乗せた宝恵駕が戎さんにお詣りする姿が消えた。華やかできれいな駕が境内に入ってくると群衆はどよめき艶やかな色香に歓声があがる・・・。
昭和も遠くなりつつ南地の花街も様変わりし、戎さんも、神社っが選んだ福娘が吉兆の福笹を授与して境内の景色を盛り上げている。
わが家も父が商売していたから、毎年、新しい福笹を買っていた。 「商売繁昌」したかどうか? |
|
|
大阪の都心を南に流れる大川(旧淀川)は、桜之宮下流から大きく西へ湾曲して天満橋をぬけ、中之島剣先で堂島川と土佐堀川に分かれて天満橋をくぐる。天満宮は、その天満橋北詰を北へ約400m、天神橋筋商店街を東に入ってすぐの位置にある。
「大阪天満宮」と大書した石碑を右に、表門をくぐると、広い境内正面に豪壮な本社が建ち、参詣の善男善女を迎えてくれる。賽銭をそっと投げ手を合わす。「子どもが合格できますように」「家族が平安無事でありますように」と。しばらくすると、地方の団体さんがにぎやかに境内に入ってくる。鳩の群れがいっせいに飛び立ち、本社屋根の上空を舞う。
天神さんは昔から大阪経済・文化の支えであった。天神さんのすぐ南を流れる大川辺の緑道に「天満青物市場跡」の碑、少し離れて「ねんねころいち、天満の市よ」と唄う「天満の子守歌」の碑がある。天満青物市場は約510年前の明応5年(1496)、今の大阪城付近に創建された石山本願寺前町に生まれたのがはじまりで、昭和20年の戦災で焼失するまでこの地に存続し、市民の台所として賑わった。境内の北側裏門近くにある亀の池は別名「星合池」と呼ばれ、千年の歴史を持つ。池にかかる石橋を渡ると「寒紅梅」「唐橋」「珊瑚梅」などのミニ梅林が開ける。また天神さんの西一筋目の天神橋筋商店街は南北2.5kmに及ぶ日本一長い商店街として全国に名高い。
平成18年9月15日、裏門脇に大阪では実に60年ぶりに復活したという落語の定席小屋「天満天神繁昌亭」がオープン。この1年で15万人の来客があったという。市民の2億円の寄付で立てられたこの寄席の経済波及効果はなんと116億円。隣接する商店街も軒並み3割の増収だそうだ。全国から訪れる参詣者と落語を楽しむ人々で周辺は連日にぎわっている。
|
|
|
なにわびと
井原西鶴「町人世界の現実を活写」 |
|
大阪文化の源流は、江戸時代初期の井原西鶴と近松門左衛門である。近松は越前福井に生まれ、京都で浄瑠璃の台本作者として腕を磨き、50歳を過ぎて来阪、美と情けのあふれる数多くの名作を残したが、西鶴は近松より11歳年上で寛永19年(1642)、大阪の鑓屋町(中央区)で生まれた生粋の大阪人で、金と欲が渦巻く町人世界を鋭く活写した。
西鶴は20歳前後から俳諧師を志し、30歳過ぎに当時天満宮の連歌所にいて新風を誇っていた西山宗因(にしやまそういん)の談林(だんりん)派に加わった。
やがて多作連吟を生命とする矢数俳諧(やかずはいかい)で頭角をあらわし、延宝8年(1680)5月7日の西高津生玉社で、一日一夜四千句独吟の矢数俳諧を企画した。吟味役など数十人の俳諧師が居並ぶなか、午後6時から20秒に一句の割合で西鶴の独吟がはじまる。執筆係の8人が汗だくでこれを記録、夜を徹し、日を通じて8日の午後6時、見事に四千句独吟を果たし、境内を埋める観衆が拍手喝采、歓喜の声をあげた。
俳諧師として一躍名をあげた西鶴は、その余勢をかって浮世草子「好色一代男」「好色五人女」「日本永代蔵(にほんえいだいぐら)」「世間胸算用(せけんむねさんよう)」を書いた。
浮世草子は今日小説にあたる新しいジャンルで、近代日本文学にも大きな影響を与えたが、このうち「大晦日は一日千金」の副題を持つ「世間胸算用」は苦しい現実を、知恵と策略で切り抜ける町人の姿をユーモラスに描いた傑作として知られる。
なお西鶴の墓は中央区上本町西4丁目の誓願時(せいがんじ)にある。
|
「世間胸算用」より
誓願時にある西鶴の墓 |
|
|