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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2006 第23号> |
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浪花百景「三大橋」
歌川国員(うたがわくにかず)画
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安政年間(1854〜60)のころ、3人の大坂の浮世絵師の合作による錦絵、『浪花百景』が北浜の‘石和’から出版された。桜宮、野田藤、四ツ橋、天保山、住吉高灯籠など、当時の100の名所が色鮮やかに描かれ、この「三大橋」もその一つとして採り上げられている。
手前から、難波橋、天神橋、天満橋と架かる。現在の中之島の御堂筋上空あたりから東南の方向を臨む風景である。水の都と呼ばれていただけに、町を縦横に走る川や堀には数多くの橋が架けられていた。その中でも整然と3つ並んだ橋の光景は美しかったに違いなく、「浪華三大橋」と称されたほどである。
現在、堺筋を土佐堀川に架かる「難波橋」は、大正4年(1915)市電が走る橋として掛け替えられるまで一つ西の筋に架かっていた。
江戸時代、橋周辺は数多くの蔵屋敷が建ち問屋が集まり、活気を呈するとともに、川端は舟遊びや避暑を楽しむ行楽地でもあった。
三大橋のなかで、最も長い橋が「天神橋」であった。17世紀中ごろは、大川には淀川と大和川の水が入り川幅が広く、最長時には百三十七間(約250m)あったという。また、天保8年(1837)の大塩平八郎の乱の折りには、天満橋とともに、幕府の手で一部が撤去されているが、町にとってのこの橋の重要性が見てとれる。
上流部に位置する「天満橋」。江戸時代、谷町筋より一つ東に架けられていた。18世紀初めまで、橋南側には東・西町奉行所が、近辺には役所、橋北側、大川沿いには町与力の屋敷、空心町にかけては同心などの官舎が建ち並び役人が行き交う橋でもあった。
いま、「難波橋」は新柱上のライオン像で、そして、流麗なアーチを持ち、公園周辺の風景に溶け込んでいる「天神橋」、後に出来た高架橋により“重ね橋”としての風景を生み出した「天満橋」。風景は変われども、それら浪華の三大橋は、いまも、その重要な役割に変わりはない。 |
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大阪再発KEN記(7) 松葉 健
<モダン大阪の頃>「初代通天閣の頃」
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新世界が、大正・昭和初期の頃モダンな街だったのか住民として要点だけを検証してみよう。
・通天閣は大阪の名所・シンボルだった(絵葉書による)
・新世界は大阪南部地域の憩いの場。(ミナミより近い)
・ラジウム温泉は(プール付)ヘルスセンターの先がけ、家族づれで賑わう。当時を偲ぶ人が多い。
・映画全盛の頃、封切館が十数館。有名俳優の実演もあった。大阪相撲の国技館も。
・庶民信仰の四天王寺縁日の帰途、新世界で食事といっぷく。
・料亭が繁盛。公設市場も近隣から買い出しに、凄い活況。
・社用宴会多く、芸妓さんの艶な姿も情緒あり。
・商店街の食堂(はり重・いづもや・びっくりぜんざい・本家更科ふぐ料理など)
商用と家族サービスが気安くできる。
・通天閣の脚元に、キリンとアサヒ直営ビアホールが二カ所。その向いにエプロン女給のカフェあり。
ああ楽しきかなモダン新世界。 |
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春の造幣局桜のお通り抜け、夏の天神祭には数多くの人が行き交う天満橋。通常は商用車の交通が占め、東や南と北とを結ぶ重要な役割を担う。また谷町筋を少し下って東に折れると、大阪城。戻って土佐堀通を渡り西に少し歩くと、昆布屋の前に『八軒屋浜跡』の碑がある。江戸時代、川に向かって階段状に傾斜が設けられ、人の移動や荷の上げ下ろしの場となる、京と大坂を結ぶ交通の要衝であった。天神橋は名の通り、橋を北に渡ると大阪天満宮、そして日本一長い商店街、天神橋筋商店街へ導かれる。橋の途中にある渦巻き状のスロープを降りていくと下の公園に。土佐堀通りを西に高速道路を潜り、歩を進めると、右手に橋の両側に阿吽の形としてライオン像が見える。その難波橋では、新装の大阪証券取引所が橋から見える風景は昔のものではないが、人と町を結ぶ橋の役割と履歴は確かにいまも途切れてはいない。
新世界はもともと都市計画に基づいて設計された町である。明治36年の内国勧業博覧会、ルナパーク以降、一帯は庶民の娯楽や風俗の最先端であった。着飾った老若男女、家族連れが集まり賑わいをみせていた。そして通天閣はその象徴とも言え、新世界の中心にそびえ立つ。初代通天閣(明治45年(1912竣工))は第2次世界大戦終戦の前年、火災により焼失、火事場に残った鉄は軍用資材として納められ、跡形もなくその姿を消す。しかし、戦後、地元住民などの力により、“新”通天閣が再建され、いまもこの地の象徴であり続けている。
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なにわびと
緒方洪庵「適塾とその周辺」 |
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緒方洪庵が適塾を開いたのが天保9年(1839)。患者や塾生が増えたこともあり、その4年後、現在の地(中央区北浜)に移る。
いまビジネス街の真ん中にはその2階建て木造の建物が残る。中はひんやりと、当時の空気がそのまま漂っているようだ。
2階には塾生同士が取り合ったという辞典が展示されているが、少しでも早く外国の学問を吸収しようとする様子が伺える。まさしくこれから向かうことになる幕末から維新という時代への助走となっていた。
洪庵は文化7年(1810)、備中足守藩の下級武士の家に生まれる。17歳の時に大坂に出、学者の中天遊に弟子入りし4年間ほど学んだ後、天保元年(1830)医学を深く学ぶため江戸に下る。そして4年後今度は大坂を経由して長崎へと遊学している。
当時の学問の最先端を追いかけるように洪庵は移動しているようだ。
適塾の塾生は六百人を超え、北海道の松前藩から南は薩摩藩から集まっている。大村益次郎、福沢諭吉らもその中の一人である。
医学者としての洪庵はコレラや天然痘といった伝染病の研究に大きな業績があり、集めた文献を翻訳してつくったコレラへの医書「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」は当時の同業者にも配られている。
文久3年(1862)、洪庵は幕府に召しあげられ、奥医師、西洋医学所の頭取に任じられるが、任についての10ヶ月後、御徒町で亡くなる。喀血のあったことから死因は肺結核と言われているが、幼少のころより病弱で極度のストレスによるものだとも考えられている。享年54歳。師として、医学者として生きた緒方洪庵の精神の証はここ適塾にはある。 |
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