大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2005 第22号>

「浪花百景」摂津名所図会「安治川橋」


安治川橋

 大坂は、大坂城を起点に西に向かって開かれていった。町中には数多くの川や堀が 造成され、それら水路を通じて海につながっていた。
安治川は、海に流れる川の一つで、洪水や土砂堆積への対応として淀川治水のため、 貞享元年(1684)の河村瑞軒の九条島開削によりつくられた。そして、周辺設備が 進みつつあった元禄11年(1698)、安治川に初めて架かった橋が安治川橋である。
 河口付近には多くの帆の高い船が係留、あるいは行き来する光景が描かれているが、 橋を潜ることのできる船以外は下流付近に留まり、荷の積み下ろしが行われていた ようである。江戸時代、安治川橋は橋長約80m、橋幅約5mの規模を持つ町橋で、 掛け替えなどの費用は橋の南北両側の町村に依っていた。
 幕末から明治時代にかけて川口居留地の設置など町の発展とともに、明治6年 (1873)、居留地から川を渡る橋としてそれまでの橋より少し上流に新しく架け替え られた。この橋が、西洋からの技術輸入により造られた、日本で初めての近代的な旋 回式可動橋である。橋の規模は江戸時代と大差はなかったようだが、両岸からの木 桁橋をつなぐ中央可動橋部は石積み円形の橋脚の上に可動装置が設けられ、帆の高い 橋が通航する時に橋の中央部が川の流れにより構造上人力で可動し、橋の回る様から”磁石橋” と呼ばれていた。
しかし、この橋は同18年(1885)に起きた大洪水時の際、上流からの橋材がこの 橋に滞り、溢水の危険有り、として解体されている。
 その後は安治川の両岸を繋ぐものとして、昭和19年(1944)、歩行者と車両が河 の底を通る河底隧道が造られたが、橋が架かったのは、同36年(1961)の国鉄環状線、 同38年(1963)の国道43号線としてである。明治時代来80年余の月日は船運から 陸運はこの地の履歴を物語っている。


大阪再発KEN記(6) 松葉 健

<安治川と源兵衛渡し>


安治川橋

 昭和19年に安治川隧道(海底トンネル)ができるまで此花区西九条と西区安治川町間は源兵衛渡しを利用していた。少し川下(しも)には三丁目渡しがあって春日出の八本煙突(火力発電所)として有名だったところだ。 大正時代”大阪は煙突の都”といわれるほど工業繁栄地帯だった。現在は関西電力の発電所跡地として 更地になっている。九条で生まれ育った女性(61歳)は「小学校の頃、このへんに写生に来たもんです。 コークスや、石炭なんか積んだ船がよく通っていた印象が残っていますよ。向こう岸へ行くのは隧道でしたけど 川下(しも)の三丁渡しにもよく乗りました。」と懐かしむ。 現在の安治川大橋の手前で河川工事のガードマン(初老)氏に話しかけたら「わしはこの辺で育ったんや。 ”渡し”は生活の足やった、無料でのせてくれるし、まぁ、橋と同んなじやなァ」といった。

SHOW都大阪(6)

安治川の名は、新川としての造成時、「安けき治むる」という意味でつけられたという。大阪は海に向かって発展してきた。低湿地で川などから浚えた土を盛り土しての造成は、市域を広げた反面、水害との戦いでもあった。市内のそこここに堀や川があり、それらは大きな川と合流することによって海につながっていた。海からの水害は遡って、また上流からの水害は下流であるまちなかへと被害を及ぼす。治水への思いが川の名に表れている。「安治川隧道」へ行く。地下鉄中央線九条駅を降り、北西に伸びる商店街に入る。昔の商店街の雰囲気を残す店々をのぞきながら歩き、アーケードの端の大通りへ。周辺には倉庫や工場が並び、大型トラックが行き交う。目の前にコンクリート造りの3階建てほどの高さのある建物が現れる。この隧道には第二次世界大戦末期に設けられている。それ以前はここに源兵衛渡しがあった。建物正面左側には地下へと降りる階段とエレベーターの扉が、その右手にはその昔、車が出入りしたであろう車用の扉が二つ並ぶ。人と自転車を載せたエレベーターがゆっくりと降りる。 このエレベーターは両面に出入り口がある。地上に出入りする面と地下で出入りする面である。扉が開きエレベーターに乗る。降下して地下に着くと、今度は正面の扉が開く。そのまま歩を進め地下通路を歩く。ちょうど通路の上に川が流れているということになる。行き当たるとそこには降下したのと同じようにエレベーターの扉がある。それに乗るとまた正面にも扉がある。自転車もいちいち方向転換しなくてもすむ、ということである。乗降の際、皆が皆、エレベーターを操作する職員の方に挨拶している。「ありがとう」「ありがとうございました」小学生も会社員も中学生も近所のおっちゃんもおばちゃんも自転車に子どもを乗せたおかあさんも、またその子ども用座席に乗った小さな子どももお礼を言っている。「ありがとう」。対岸へ渡るのに、エレベーターの待ち時間を入れても5分とはかからない、その間である。これが日常の光景なのだろうか。バタバタとここまでやって来て、何かホッとした。深呼吸して体、全体に新鮮な酸素が廻るような心地がする。「ありがとう」と言うとき、人は怒った顔や渋い顔はしていない。たぶん、「ありがとう」という言葉と、言ったその人の表情の柔らかさが、こちらに伝わってきたのではないだろうか。下町だからというのではない、基本的な人と人との交わりの仕方が、まだここには残っているような気がした。

なにわびと

蓮如のころからはじまる町「京橋」

 「京橋」といえば、一般にはJR・京阪電鉄・地下鉄が集中する京橋駅を指し、にぎやかな駅前商店街を思い浮かべる。    しかし、実際に「京橋」と呼称する橋は、この京橋駅から西へ約1.2kmの寝屋川下流に架かる幅9m、長さ55mの橋で、南に渡ると大阪城、北詰を西に向かうとすぐ大川である。
大坂城が築かれる前の明応5年(1946)、浄土真宗の中興の祖蓮如によってこの大坂付近に大坂(石山)本願寺が創建され、京橋南詰一帯に諸国から 商人・職人が集まって門前町を形成、野菜や魚の市が開かれて大いににぎわった。今日の商都大坂、および大坂人の先駆である。
「石山本願寺の建立あるや、諸国より多数の門徒、本願寺門前町に往来して所謂門前町を形成したため、青物・魚類の需要興り、付近の農民及び 商賈は城北土手下に集まり、自ら市場の発生を見るに至った」(「明治大正大阪史」第3巻)。
この後、豊臣秀吉が大坂城を創建、秀吉没後政権を掌握した徳川氏が、大坂冬・夏の陣で荒廃した市中を復興、大坂は江戸時代の天下の台所として発展したが、 この大坂経済を支える堂島の米市場と並んで、天満青物市場、雑喉場(生魚)市場、塩干魚の問屋・仲買などが発展していった。
現在、巨大な石垣と天守閣を正面に眺めながら京橋を南に渡ると、道路は大阪城の外堀を大きく迂回して上町筋に向かうが、私たちはこの地が、商都大坂の起点の 一つであったことを銘記しておきたいものである。

安治川橋

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