大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2004 第20号>

浪花百景「高麗橋」


「高麗橋」


橋詰めには商いの店が並び、多くの人々が行き交う。ここは高麗橋。船場の東を境とする東横堀川に架かる。
元々城の濠にあたり、城域と町を結ぶ重要な橋であった。その名の由来は、秀吉の時代、高麗からの使節がが通った道とも、近辺に使節を迎える施設があったためとも伝えられている。

絵に見られるように、船からの荷物の上げ下ろし作業のため川や堀沿いには階段が設けられ水辺が近かったことが分かる。元禄時代、東西に通る高麗橋筋には三井呉服店、両替商をはじめ、べっ甲やひもを扱う店などが並び、にぎわいを見せていたようで、絵に見る橋の西詰めには、公儀からの通達を知らしめるための高札がたち、人通りの多さを知ることが出来る。橋のたもとには、矢倉屋敷が建てられているが、元来は交通の要所の見張り用であったものが町人の手に渡ると建物をそのままに商家として使用したという。

明治3年(1870)、大阪で初めて、日本で長崎に次いで2番目の鉄橋が架けられた。木造からの架け替えで、「くろがね橋」の愛称で呼ばれ、「欄干、桁、橋杭にいたるまで悉くテ鉄にあらざる処なく、・・・その壮観言語に絶し」たと、その当時の大阪の人々にとって大きな誇りであった。また、その明治9年(1876)には、”里程元標”が東詰南角に設けられる。この地が国道一号線の終点であり、二号線の起点であるという印であり、交通上重要な地点でもあったことが知られる。

現在、昔の橋の面影をみることはできない。ただ一つ、元和元年(1615)、大坂夏の陣で徳川方の武将に持ち帰られたと伝える”擬宝珠”が、大阪城天守閣に保存され、当時を偲ぶものとなっている。


大阪再発KEN記(4) 松尾 健

<最初の御公儀橋>


「最初の御公儀橋」

 



昭和4年、高麗橋は鉄橋からコンクリートへ架け替えられた。その頃の写真を参考に描いたのが上の絵である。
大川から東横堀川を流れる水は、まだきれいだったようで、本町曲がりといわれた濃人橋あたりでは、藍色に染め上げた布地を水洗いに吊している風景が描かれている。(野村広太郎画)
その少し南に木材町という地名があるのは木材商が栄えた名残だろう。
高麗橋の西方は船場で大阪の巨商が集まっているところ。ぼん、いとはんのいる街だった。
高麗橋の下を流れる川が少し南へ向かうと知人宅があった。
「子どもの頃、この川で釣りをした。夏はフナがいっぱい浮き上がってくるんや、それをあみですくうわけ、、、」と楽しそうに話してくれた。

SHOW都大阪(4)

土佐堀川から東横堀川を南に下る。高度成長期に市内の川や堀は埋められ道路などに姿を変えたが、この川は水の流れはそのままに、高速道路が覆い被さるように頭上を走る。流路だけが昔の記憶を残す。身近な川の存在を思い出させるように、川岸には親水空間として遊歩道が設けられたところもあり、そぞろ歩きが楽しめ、また、前述の高麗橋には橋の由来が分かるように説明板などが建っている。その北、今橋から今橋通を西に向かう堺筋周辺には証券会社が軒先を連ね、大阪証券取引所も昔の外観を残しながらの改築が進められている。もともと江戸時代の頃、天王寺屋、平野屋などの両替商が建ち、経済の中心を担っていた土地柄、連綿とその歴史は受け継がれているようだ。南にずっと下り、本町橋にでる。西南の役より2年前の明治8年、(1876)、橋の東詰北には、富国強兵・産業の振興と普及啓発の役割を担うものとして大阪博物場が設けられていた。しかし、明治18年府への移管後、勧業的色彩が薄れ、「陳列所・売店能楽堂・動物園等を以て構成」する大阪人のとっての「唯一最大の楽園」となる。大正初めには大阪産業創造館が建ち、この土地の持つ商工業の履歴を垣間見ることが出来る。
子どもの頃、川を渡る、というのは冒険であった。橋を通って向こう岸に行くだけなのだが、それが近所でも、どこか離れた別のところに行くような感覚だった。大人になり、改めて訪れると、川もそんなに大きくなく、橋も記憶より短かったりする。現在、子どもの頃に渡った橋も、川の埋め立てとともに消え、その周りの風景も時代とともに変わってしまっている。それでも記憶にある限りそれはその人にとっての”故郷”である。


なにわ人 淀屋个庵(こあん)

豪商消えて淀屋橋を残す(1576-1648)

このコーナーでは、商いと学問がいきいきとしていた大阪文化の特徴でもある町人学者を取り上げていく。

「中井竹山」

梅田から南へ約500メートル、中之島の市庁舎前から淀屋橋を渡ると、交差点西側の橋のたもとに「淀屋の屋敷跡」の碑がある。「近世の初め中之島の開発とその他、大阪の発展に貢献するところの多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている」碑は、昭和36年に大阪市により建立されたが、実際の淀屋は、北浜通りの一つ南側、住友生命ビルの裏手一帯に、数十の蔵を擁する豪商であった。

淀屋の初代常安は山代の人で、北浜に居を構えて材木商を営み、大坂の陣では徳川氏に就いて特権商として基礎を築き、中之島を開発下流の常安橋のその名をとどめている。常安の長男で二代目の个庵は、大名が送ってきた国産物の出納を扱う蔵本となり、河岸に米の市を始めて「北浜の米市」として成功した。 淀屋橋はこの米市の利便のために个庵が私費で架けたという。

北浜の米市は、元禄10年(1697)に堂島に移るが、豪勢をきわめた淀屋は、五代目三郎右衛門の時、所有する財産と生活の贅沢ぶりが、町人の身分を超えるとして幕府によりその全財産が没収された。世に言う「淀屋の闕所」(宝永2年/1705年)で、豪商の経済力が幕藩をゆるがしかねないという理由である。 こうして淀屋はなくなったが淀屋橋は残り、21世紀の大阪に生きて、大都市の経済をしっかり支えている。


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