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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2003 第17号> |
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浪花百景「長町裏遠見難波蔵(ながまちうらとおみなんばくら)」
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樹木がしげり、人の往来も少なかったこの辺りに蔵が建ったのは享保17年(1732)。敷地は東西七十軒(126m)、南北八十軒(324m)、八棟の米蔵が建ち、幕府による年貢米の集散と災害時の救援米蔵の役割の担っていた。
周囲には、道頓堀側から水を引き、難波蔵建設とともに造成された難波新川と呼ばれる堀が囲み、水路として利用されていた。
この蔵は幕末、維新と明治の時代まで残るが、同38年にはその姿を消し、ここに煙草専売局大阪工場が建つ。その後、昭和に入り第二次世界大戦でこの工場も焼失する。
この絵は、傘貼りした傘を乾かしていたのだろう、突然の風で蔵の方に傘が飛ばされていく様が描かれている。現在、都心となっているこの地で、いまや考えられない、のどかな光景が拡がっていた。
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大阪再発KEN記(1) 松尾 健
<日本橋五丁目付近>
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長町から日本橋筋へ。
昭和十年代・堺筋の日本橋は古本屋街として知られていた。
路面に市電が通り、街路樹と街灯が歩道に並んでいた。
瓦屋根で二階建ての店舗住宅が軒を連ねて、のどかながら人通りは多かった。
荷馬車が車道の端を通り円タク(一円タクシー)が客を拾っていた。
電車通りの家並みの間々に路地があって、奥にも長屋が数軒世帯を持っている。
どこの家も子どもがいて爺さんか婆さんがいた。
古本を漁る若者が安い店を探して、ウロウロしている時代だった。
日本橋三丁目の松坂屋(デパート)は地元の人達が服を着がえて買い物にいく楽しい場所であった。
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SHOW都大阪(1) |
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「なんばパークスあたりを望む」
江戸時代は「難波蔵」、明治時代は「煙草工場」、昭和の戦後に
は「大阪球場」と変遷してきた、ここ、"難波"の地。『浪花百景』と
イラストで辿ってきたこの場所は、平成の現在、「なんばパークス」
として新たな光景を作り出している。
「キャニオンストリート」と名付けられた渓谷をイメージした吹き抜け
を挟み、両側にファッション、雑貨などのショップが並ぶ。また、建物
の上には段丘状に、緑に覆われた屋上庭園「パークスガーデン」が拡がる。
これらと緑とエンタテイメントといった要素は、これまでの"難波"が
経てきた歴史の積み重ねでもある。蔵の跡は表に面して建つ碑がその由を示す。
球場の姿は床に記されたマウンドとホームベースに記憶として刻まれ、
行き交う人々が時折立ち止まっては投手や打者のポーズをとっている。
そこにはそれぞれの時代の風景を見ることはできないが、人が憩い、
集うのはどの時代でも同じこと。
人々の娯楽に対する興味や関心は変わることなく、ただ文明の発達によって、
仕掛けが大掛かりになっていくだけのことだ。
御堂筋の南端、延長上に位置し、千日前、戎橋筋など、繁華街に近く、
ターミナルとしても発展、いまなお進化し続けている。 |
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なにわ人「山片蟠桃」
大阪人における合理性の源流築く
このコーナーでは、商いと学問がいきいきとしていた大阪文化の特徴でもある町人学者を取り上げていく。 |
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大阪の風土、合理性に富み、自由闊達でおもしろおかしい大阪人の源流をたどってゆくと、山片蟠桃という人物にたどりつく。
北区南森町交差点の一つ東の筋は、南北約2kmにわたる天神橋筋商店街で、そのもう一つ東の堀川小学校を北に入って四つ目の辻角に善導寺があり、門前の山片蟠桃墓所碑に、「蟠桃は両替商升屋の番頭であったが、儒学の造詣が深く、有名な『夢の代』の著書がある。草間直方と並ぶ近世後期の町人経済学者である。文政四年没」と刻まれている。
蟠桃は播州加古川の生まれで13歳で来阪し、今橋の両替商の丁稚となったが読書好きが高じて解雇され、同業の升屋平右衛門に拾われた。平右衛門は本姓山片重賢と名乗る学問好きで、蟠桃も主人とともに学問所懐徳堂に通って実学を身につけ、やがて升屋の番頭となるが、次第に主家の経営が苦しくなり倒産寸前に至る。経営悪化の原因は大名貸しの焦げ付きである。
蟠桃は一計を案じ、大名が江戸へ回送する米の検査を無料で引き受けるかわり、米俵に差し込んだ竹筒に残るさし米をいただきたいと申し出、許可される。蟠桃はそのさし米を蓄えて売りさばき、年間六千両に近い収入を得て升屋を再建し豪商に育て上げた。
一方、学問の方では、懐徳堂で中井竹山、履軒に学び、麻田剛立から天文学、蘭学を習いながら万巻の書を読破した。19年を費やして73歳の時に完成した『夢の代』全12巻は、天文・地理・歴史・制度・経済等の幅広い内容に渉りながら、常識にこだわらぬ独創性に貫かれ、今日、世界にその名を知られている。
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