大学でマスコミ論などを話していて「新聞の発祥は大阪だよ」と言うとたいていの学生が「ウッソーッ」といった顔をする。商売に関連することは別として、情報や文化関係の事業が東京でなく大阪から始まっていることは、とても信じられないという様子なのである。
ここに一枚の新聞と実寸台のコピーがある。B4判よりやや小さめ。上段に右から左への横書きで「朝日新聞」とあり、すぐ下に同じく右から左への横書きで小さく「明治十二年一月二十五日 土曜日第一號」とある。
文字通り今日の朝日新聞の創刊号で、大阪の第三区(のちの西区)一小区江戸堀南通一丁目七番地で印刷、発行されている。これが、一般紙、商業紙と呼ばれる日本の新聞の始まりとされている。124年前のことだ。
毎日新聞も大阪に生まれた。そして朝日は明治21年、毎日は同44年、それぞれ東京に進出した。全国紙はこうして始まる。ほとんど聞かれなくなったが、大阪以外で朝日を大朝(だいちょう)毎日を大毎(だいまい)と呼ぶ人がいる。大阪朝日、大阪毎日略である。
朝日新聞発刊当時、大阪には江戸時代の瓦版の流れをくむ小さな新聞がいくつかあった。東京はどうかというと、ここはすでに政治の中心だったから、天下国家を論ずる、いわゆる政党機関紙のような政論新聞がいくつかあった。大阪で生まれたこの朝日新聞は「大阪府官令」など、今でいう官報の記事を第一面のトップに載せてはいるが、紙面のほとんどは街のニュースないし情報である。こんなのが見える。
「大和国奈良東大寺の博物館は例年通り来る三月中旬より開場になり本年は該地正蔵院の宝蔵を開かれ珍品出品なるに付当今調べ中なりと」「東高津村の梅屋舗(やしき)は追々梅の蕾を綻ばすとて茶屋酒肆はそろそろ小屋掛にかかり来る二月中旬には全く開き馥郁四辺を薫はすに至らんと閑雅人の話しなるが実に梅は百花の魁であり舛」東大寺の宝物殿開催といい、梅の開花予想といい、いかにものんびりした街ダネだ。この新聞は見開きで4ページで、第2面、第3面にも街ダネが続く。天満の天神さんの境内わきに、いなりずしで評判を取った店があったが、もうけに溺れて落ち目になったという話、芸人の家に空き巣に入った泥棒が、盗んだ風呂敷包みが舞台衣装とわかって畑に投げ捨てて逃げた話、あるいは折からの道頓堀の芝居の評判記などである。
さし絵が、1,2枚あるだけで、あとは小さな活字だけを並べた、なんとも殺風景な紙面だ。しかし、まずは読者の知りたがっていることを報せようという、今日の新聞の原型のようなのもがこの第一号からうかがえる。商売という点からみても、これは極めて妥当なことだ。これまた、「売れてなんぼ」というのだろう。さすがは大阪だ。新しい商品として新聞を本格的に売り出したのである。ここには、近松門左衛門時代にもさかのぼる瓦版の精神が息づいている、といってもいいだろう。が、それよりもなによりも大阪の風土が育んだ、進取の気性に富む起業家精神がそれを成し遂げた、とみることができる。
朝日新聞の初代社主、村山龍平は当時、手回し印刷機をアメリカから買い、現在の朝日新聞大阪本社の真南500メートルほどのところにあった木造2階建て棟割り長屋に据えた。この印刷機は今も中之島の同本社1階の朝日ホールに置かれてある。ちなみにこの印刷機で1時間に300枚刷れたという。現在の輪転機は1時間に軽く14万枚を超す。
<藤井 肇>
朝日新聞論説委員、
朝日カルチャーセンター専務などを経て、
関西学院大学、桃山学院大学など非常勤講師。
1932年(昭和7年)生まれ。
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(1)朝日新聞 創刊号第一面(朝日新聞社 提供)
(2)創刊当時使われていた手刷りの印刷機。「ダルマ」「おたふく」と呼ばれていた。
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