大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2003 第15号>

「長堀川」


「長堀川」


船場を囲む四つの川の南辺に位置する長堀川。東横堀川を末吉橋先から西に折れ、木津川と合流していた。この流れを水路として、両岸には種々の産業が 発達した。長堀橋以東南の浜には住友の銅製錬所、佐野屋橋の西あたりには大坂屋の銅吹き所が建つ工業の場であった。また、長堀川北岸には石屋の浜と呼ばれ、諸国の石が集められ、燈籠、地蔵などの加工も行われていた。
宇和島や土佐の蔵屋敷があった西横堀川以西のいわゆる西長堀川川岸、材木浜では、土佐などから多くの材木が運ばれていたため、材木を扱う問屋が集まり、市が立つほどの賑わいを見せていた。
このように、海から街への中心部へと導く木津川とそれに連なる長堀川の流路は、交通、運送の要であり、産業を大きく支えるものであった。北に船場、南に島之内とそれぞれ異なった性格を持つ街にはさまれ、それらとはまた、違った発展を経た流域の浜。
その後、産業構造や都市交通の変化にともない、1960年ごろ東部から始まった川の埋め立ては、橋の撤去とともに、 1970年代初めに完了、地上には車が走り、地下には駐車場が建設された。
下の写真は、川としての役割を終えようとする直前の風景であり、まさしく時代の移り変わりの一コマである。現在、地下には駐車場のほかに、長堀橋から旧横堀川までを連絡するショッピング街「クリスタ長堀」が営業、心斎橋筋では石造りの橋を再現、その下に水を配するなど、昔の面影を漂わせつつ、その姿は時代とともに変化している。


聞き書き私的「大阪弁」(2)

 


いまや全国に拡がりつつある大阪弁。しかし、使われなくなったり、消えつつある言葉がたくさんあります。
普段の生活で使用していたそれらの言葉を、記憶の中を探りながら’聞き書き’として掲載していきます。

「どこ行きはんの」「ちょっとそこまで」


玄関を出て歩いていると、近所の人に声をかけられる。「どこ行きはんの」そして、それに応える。「ちょっとそこまで(出掛けてきます)」「どこ行きはんの」と言われて、くわしく応える必要はない。相手もそれを期待はしていない。あいさつ代わりなのである。「おはようさん」でも「こんにちは」でも「こんばんわ」でもいいようなものであるが、場面に合ったあいさつなのである。知り合いが目の前を通り過ぎる。なにげなく声を掛け合うのは、近所付き合いならではである。会話的なあいさつと言った方が良いかもしれない。

「いーちにぃさあんしぃ〜ごーろくうひちはちくうじゅう」


この抑揚のつけかたに、独特の節回しがある。文字では表せないのが残念である。子供の頃、湯船に浸かってあがるまでの時間を数えるときや、物や人の数を数える所など、意識しないでもこんな数え方であった。たとえば、試しに不特定の人何人かに、教えて下さい、と言うと、その数え方のイントネーションで、大阪育ち、少なくとも関西育ちであるかどうかは、分かるという。仕事上は、さすがに平坦な標準的な数え方をする。が、ほっとしている時などついつい抑揚をつけてしまうことがあり、そんな時、ひとり恥ずかしがったりする。

「まいど」


「いつも」、「そのたび毎に」の意味で、漢字では「毎度」となる。電話で「まいど、○○です」。「まいどお世話になってます」「まいどおおきに」が略されて「まいど」であり、得意先の訪問時に、また、仕事関係の知り合いとすれ違う時にも、あいさつがわりとしても使える。毎度、お世話になってなくてもまいど、でいいのである。典型的な大阪人が描かれる時、よく例にだされる大阪ことばの一つである。職種、地域にもよるが、昭和30年代生まれを境に、その使用の有無がわかれるところと思われ、だんだん耳にしなくなってきている。

「わやや」


「さっぱりわやや」「わやくちゃや」「わやにしてもうて、どもならん」むちゃくちゃ、ダメ、もう、どうにもならん、元通りにならない状態をあらわしている。「わやや」と耳にすると、緊迫感がなく、ふざけているとはいかないまでも、余裕があるような感じがしないでもないが案外本人は、辛くて、「わやや」言うてなしゃぁなかったり、「わやや」言うほかないほどだったりする。それとは逆に、冗談やしゃれに使って、悲壮感を感じさせず、場の雰囲気をやわらげることもある。

「なおす」


「これなおしといて」「えっ、どこをなおすの」。初めて聞いた人で、意味が通じない言葉の一つである。この「なおす」は「かたづける」という意味である。そして「なおす(=直す・修理する)」も「なおす」である。使われる場面によってその意味を聞き分けないといけない。例えば、「そこになおしてあるなおした時計、なおしなおして、またなおしといて」。何をどうせえというのだろうかは、以下の通り。「そこに片付けてある修理した時計を、修理しなおして、また(押入などに)片付けておくように」。

「さら・さらぴん」


「さらのさら」は、新しい皿ということで、最初の「さら」と後の「さら」は意味が違う。だから、「さらちゃうさら、さらのさらにかえといて」というのは、「新しくない皿は、新しい皿に替えておくように」となる。「さら」を強調したい時は「さらっぴぃ」、「まっさら」と使う。そして「この服さらっぴぃやねん」と子どもが言う時は、格別のうれしさが、この言葉に込められている。子ども時代の思い出としては、舌っ足らずなこの言い方が、身近である。

「夜道に日は暮れん」


夜の10時。洗い物がまだたくさん残っている。夕食後の片付けなど、遅くまで作業が長引いて独りごちる。「夜道に日は暮れへん・・・」すでに日は暮れて数時間。これ以上暮れようがない。夜はこれから、という積極的な気分ではなく、時間を気にしても仕方がないという開き直りに近いかもしれない。使う場面により、人に対しては少し嫌みになる場合もあるかもしれないが、少しはしんどさを薄めてくれる言い回しではある。

なにわ印象派(2)

「ミナミ今昔」 ジョン・カメン

江戸時代、すべての藩の生産物が大阪に送られてきて、市場で売買され、大坂に大いに繁栄をもたらしたことはよく知られている。それには街中の川や運河べりに軒を連ねた多くの藩の蔵屋敷が大きな役割を果たした。 江戸時代の初めから、江戸、長崎、大津、大坂などではそれぞれの藩の産物が売買されていたが、初めの間その販売は、街の商人に委託されていた。その後、藩はより多くの利益を得るために、その業務を藩で行うことにした。藩は大きな市場のある街に土地を買い、倉庫と屋敷を造り、産物の運送、貯蔵、守護、商人との取引など取り締まる蔵役人を住まわせた。大坂は国のほぼ真ん中に位置したのと、大きな市場を持ち、水運に恵まれた所であったことから、次々に蔵屋敷が建てられた。 記録によると延宝時代(1673〜1680)、大坂には91軒の蔵屋敷があり、天保時代、(1830〜1844)にその数は124軒にものぼった。蔵屋敷のスケールは藩によって様々であったが、相当大きなものもあった。堂島側北岸、現在の裁判所のところにあった鍋島藩(肥前・佐賀県)の蔵屋敷は、その1つである。屋敷の間口は150メートル、奥行き135メートルで、20,250平方mの構内には32の倉庫があった。 蔵屋敷は武家屋敷と同じように白壁に囲まれ、昼も夜も門番が見張り、出入りは厳しく規制されていた。構内には他にも、藩の役人とその家族が住む家や仲仕たちの長屋、また、藩を代表する寺か神社の複製まで置かれていた。 蔵屋敷内の生活と行事を知るよすがとなるんのは、田簑橋と玉江橋の間、堂島川南岸にあった久留米藩(筑後・福岡県)蔵屋敷の年中行事を描いたもので、1983年に、塩昆布や佃煮で有名な「神宗」の当時の主人尾嵜雅一氏(故人)が先代が遺した物を整理していて発見した。堂島の米商人の娘が嫁いできた際、持参したものだそうである。第2次世界大戦中は戦災を避けるため市外の安全な場所に保管され、その後、その存在は忘れられていた。絵図は後の世代に2つの屏風に表装されたが、現物は大阪市立美術館に寄託され、その複製が現在の「神宗」の店先に飾られている。 絵図には「御田の祝」というタイトルが付けられ、蔵屋敷の年中行事の他に、米の扱いを38の図に、スナップ写真のように詳しく描いている。絵図は原寸大に復刻され、「神宗」の主人によって大阪大学名誉教授宮本又次氏(故人)の詳しい説明とともに1983年に出版された。蔵屋敷の運営と当時の風俗を知るのに大変大切な資料となっている。宮本氏は各絵図に次のような表題を付けている。一部を挙げると、「久留米藩から瀬戸内の廻船の旅」「安治川口の本船から上荷船・茶船の小運送につみかえ」「堂島川の上り」「藩の浜地の到着」「構内御船入り」「荷揚げ」「米俵の荷揚げ」「米の見立て」「ふりくじ」「米の掛目」「米の仕分け」「倉納め」「蔵出」「入札」「米が堂島の米市で売買される」までの過程など。他に蔵屋敷の年中行事のいくつかの場面もある。「除夜とお正月の行事」また「猿まわし」と「漫才師の到来」「堂島川の天神祭の風景」、構内の「水天宮の祭」「取引あと酒宴」など。 当時、天下の台所"大坂"には雑喉場の魚市場と天満の青物市場があったが、堂島の米市は国の一番大きな市場であった。大坂で売買されるものの内、米が中心的な位置を占めていた。しかし、藩の産物が様々であったから、砂糖、紙、綿布、藍、酒、俵物なども売買された。また、樽廻船や菱垣回船などによって、畿内の名産物が江戸と他の市場に送達された。堂島川と木津川は一年中船の往来で賑わい、元禄時代に大坂を訪れたドイツ人の学者ケンペルは『日本誌』に「一日に川を上る・下る舟の数は一千以下ではなかった」と書いている。蔵屋敷も多くの堀川も無くなった今、当時の賑わいは想像しにくいかもしれないが、「蔵屋敷時代」は、大阪と日本の歴史に大きな意味を持っていることを、大阪人は知るべきだと思う。 <ジョン・カメン>
本名:ヤン・ヴァンデルカメン
ベルギー人 71歳
日本文化、歴史研究、翻訳、
1970年より箕面市在住。
元東大阪短期大学教授(哲学)


中之島の蔵屋敷(文化10年(1813)赤松九兵衛 発行)
(1)中之島の蔵屋敷(文化10年(1813)赤松九兵衛 発行)
構内(絵図・中之島蔵屋敷風景 提供:神宗)
(2)構内(絵図・中之島蔵屋敷風景 提供:神宗) 浪華の名所 蛸の松と久留米藩蔵屋敷(絵図:中之島蔵屋敷風景 提供:神宗)
(3)浪華の名所 蛸の松と久留米藩蔵屋敷(絵図:中之島蔵屋敷風景 提供:神宗)
堂島米市場の賑わい(「上方」1939年9月)
(5)堂島米市場の賑わい(「上方」1939年9月)




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