江戸時代、すべての藩の生産物が大阪に送られてきて、市場で売買され、大坂に大いに繁栄をもたらしたことはよく知られている。それには街中の川や運河べりに軒を連ねた多くの藩の蔵屋敷が大きな役割を果たした。
江戸時代の初めから、江戸、長崎、大津、大坂などではそれぞれの藩の産物が売買されていたが、初めの間その販売は、街の商人に委託されていた。その後、藩はより多くの利益を得るために、その業務を藩で行うことにした。藩は大きな市場のある街に土地を買い、倉庫と屋敷を造り、産物の運送、貯蔵、守護、商人との取引など取り締まる蔵役人を住まわせた。大坂は国のほぼ真ん中に位置したのと、大きな市場を持ち、水運に恵まれた所であったことから、次々に蔵屋敷が建てられた。
記録によると延宝時代(1673〜1680)、大坂には91軒の蔵屋敷があり、天保時代、(1830〜1844)にその数は124軒にものぼった。蔵屋敷のスケールは藩によって様々であったが、相当大きなものもあった。堂島側北岸、現在の裁判所のところにあった鍋島藩(肥前・佐賀県)の蔵屋敷は、その1つである。屋敷の間口は150メートル、奥行き135メートルで、20,250平方mの構内には32の倉庫があった。
蔵屋敷は武家屋敷と同じように白壁に囲まれ、昼も夜も門番が見張り、出入りは厳しく規制されていた。構内には他にも、藩の役人とその家族が住む家や仲仕たちの長屋、また、藩を代表する寺か神社の複製まで置かれていた。
蔵屋敷内の生活と行事を知るよすがとなるんのは、田簑橋と玉江橋の間、堂島川南岸にあった久留米藩(筑後・福岡県)蔵屋敷の年中行事を描いたもので、1983年に、塩昆布や佃煮で有名な「神宗」の当時の主人尾嵜雅一氏(故人)が先代が遺した物を整理していて発見した。堂島の米商人の娘が嫁いできた際、持参したものだそうである。第2次世界大戦中は戦災を避けるため市外の安全な場所に保管され、その後、その存在は忘れられていた。絵図は後の世代に2つの屏風に表装されたが、現物は大阪市立美術館に寄託され、その複製が現在の「神宗」の店先に飾られている。
絵図には「御田の祝」というタイトルが付けられ、蔵屋敷の年中行事の他に、米の扱いを38の図に、スナップ写真のように詳しく描いている。絵図は原寸大に復刻され、「神宗」の主人によって大阪大学名誉教授宮本又次氏(故人)の詳しい説明とともに1983年に出版された。蔵屋敷の運営と当時の風俗を知るのに大変大切な資料となっている。宮本氏は各絵図に次のような表題を付けている。一部を挙げると、「久留米藩から瀬戸内の廻船の旅」「安治川口の本船から上荷船・茶船の小運送につみかえ」「堂島川の上り」「藩の浜地の到着」「構内御船入り」「荷揚げ」「米俵の荷揚げ」「米の見立て」「ふりくじ」「米の掛目」「米の仕分け」「倉納め」「蔵出」「入札」「米が堂島の米市で売買される」までの過程など。他に蔵屋敷の年中行事のいくつかの場面もある。「除夜とお正月の行事」また「猿まわし」と「漫才師の到来」「堂島川の天神祭の風景」、構内の「水天宮の祭」「取引あと酒宴」など。
当時、天下の台所"大坂"には雑喉場の魚市場と天満の青物市場があったが、堂島の米市は国の一番大きな市場であった。大坂で売買されるものの内、米が中心的な位置を占めていた。しかし、藩の産物が様々であったから、砂糖、紙、綿布、藍、酒、俵物なども売買された。また、樽廻船や菱垣回船などによって、畿内の名産物が江戸と他の市場に送達された。堂島川と木津川は一年中船の往来で賑わい、元禄時代に大坂を訪れたドイツ人の学者ケンペルは『日本誌』に「一日に川を上る・下る舟の数は一千以下ではなかった」と書いている。蔵屋敷も多くの堀川も無くなった今、当時の賑わいは想像しにくいかもしれないが、「蔵屋敷時代」は、大阪と日本の歴史に大きな意味を持っていることを、大阪人は知るべきだと思う。
<ジョン・カメン>
本名:ヤン・ヴァンデルカメン
ベルギー人 71歳
日本文化、歴史研究、翻訳、 1970年より箕面市在住。
元東大阪短期大学教授(哲学)
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(1)中之島の蔵屋敷(文化10年(1813)赤松九兵衛 発行)
(2)構内(絵図・中之島蔵屋敷風景 提供:神宗)
(3)浪華の名所 蛸の松と久留米藩蔵屋敷(絵図:中之島蔵屋敷風景 提供:神宗)
(5)堂島米市場の賑わい(「上方」1939年9月)
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