織田作之助の「夫婦夫婦善哉」は次の言葉で始まる。「年中借金取りが出はいりした。季節はむろんまるで毎日のことで、醤油屋、油屋、八百屋、鰯屋、乾物屋、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった・・・」
当時の千日前周辺の生活は決して楽ではなかったようである。
今年9月8日の夜の旧中座の解体工事中に起きた火災は大阪人に大きなショックを与えた。事故は日本中に大きく報道され、各新聞は連日火災に関連した記事を載せていた。しかし、記事の内容を見ると、世界最古の劇場の焼失についてよりも、劇場の裏にある法善寺横丁の損失に主眼をおくものであった。
心斎橋から戎橋をへて難波までの道路の両側には近代的な建物、レストラン、パブ、キャバレー、パチンコ店、ナイトクラブ、寄席などか並ぶ。現在の千日前と道頓堀はどこが違うのか分からないほど互いによくにている。初めて大阪を訪れる人の目に、千日前は道頓堀の延長のように見えるのも当然かもしれない。しかしこれは比較的最近の現象であり、二つのところには大きく違う歴史がある。道頓堀の方は、300年も前から劇場の町であり、日本橋から戎橋まで「五座」といわれる劇場が建ち並び、その向かい側には何十もの芝居茶屋があった。これらの劇場では浄瑠璃、歌舞伎などが演じられ、客はどこも大入りで盛況を極めた。
道頓堀は船場の金持ちの商人の集う娯楽場であった。それに対して、千日前は明治まで大阪の周辺の一番大きい墓地と刑場があったところである。道頓堀と千日前の歴史は大坂城が徳川軍によって破壊された後から始まる。初代大坂城城代の松平忠明が市街地を整備して、市中の墓地と寺を街の外に移し、それと同時に街中に散在した遊郭と芸人たちの小屋も道頓堀川べりに移転した。市の4つの墓地が芝居の町の南に移され、その後、法善寺と竹林寺が墓地の入口の近くに建設された。法善寺と竹林寺で千日回向の供養が行われていたことから千日寺と呼ばれ、寺の北側は千日前といわれた。
千日回向が流行し、参詣人が増えるにつれて、境内に彼らを相手に見世物小屋ができた。1835年頃、境内には37軒もの小屋があったそうである。
法善寺の金毘羅堂へゆく路地「極楽小地」が現在の法善寺横丁である。
路地の両側にも見世物小屋などの遊ぶところができたが、近くに刑場と火葬場があった為あまり人気がなかった。千日前が本格的な歓楽街になったのは、明治時代に入ってからである。1870年に刑場が廃止され、1874年に火葬場や墓地が阿倍野へ移転し刑場跡が払い下げられた。それから次々見世物小屋、小料理店などが進出して、1883年に夫婦善哉、1893年に正弁丹吾亭などの店が開かれ、人々は道頓堀から千日前へやってきた。明治中頃、法善寺裏と横丁は特に席亭(寄席)で繁盛した。周辺は開発され、娯楽施設が次々建てられまた壊され、千日前は一世紀を経て現在の大歓楽街に変貌した。
いま、道頓堀からはかつての芝居の町の特性がなくなり、千日前からは過去の暗いイメージは消えた。しかし法善寺横丁にはまだ昔のミナミの面影がたっぷり残っている。
(4)昭和10〜15年ごろの法善寺界隈(朋興社「百年の大阪」)
参考文献
脇田修「近代大坂の町と人」人文書院
読売新聞社「百年の大阪」朋興社
なにわ物語研究会「大阪まち物語」創元社
|
(1)
(2)千日前 見世物小屋
(3)明治45年の千日前・法善寺界隈 (朋興社「百年の大阪」)
<ジョン・カメン>
本名:ヤン・ヴァンデルカメン
ベルギー人 71歳
日本文化、歴史研究、翻訳、 1970年より箕面市在住。
元東大阪短期大学教授(哲学)
|