大正12年11月、關一(せきはじめ)大阪市長が誕生します。關市長のもと、大正14年4月1日第二次市域拡張が行われ、東成郡と西成郡の44カ町村が大阪市へ編入されていわゆる「大大阪」の時代を迎えました。大阪市は人口・面積ともに東京市を抜いて全国第一位、世界で第六位の人口を有する都市となったのです。
もっとも、東京が関東大震災で被害を受け、市域拡張が遅れたためといえるのですが。ただ、工業生産額では、本格的な戦時体制に入った昭和13年までずっと、大阪府が東京府をおさえて全国一の地位を守りました。昭和初期といえば、日本は緊縮財政による不況に引き続いて世界恐慌に巻き込まれ昭和恐慌に突入した時期でしたが、大阪の町、とくに船場では、大正末期から昭和12年頃までの期間、江戸時代から伝えられてきた洗練された質のよい都市文化が最後の光芒を放った時期であったと私は考えております。
船場では、早いところでは明治の終わりごろから店と住まいの分離が始まります。店の主人家族は郊外(阪神間がとくに多かった)へ移住するようになりましたが、昭和のはじめ頃では、まだまだ船場に住み続けるお家も多かったし、郊外へ出て行ったところでも子どもらはもとの船場の小学校へ通ったり、お祭りや年中行事といへば、船場へもどってきたりして、船場のくらしから切り離されることはありませんでした。
前回、船場の暮らしは、、町内や同業仲間や本家分家別家一統や氏地など、様々な共同体に属していて大変だったということを申しましたが、そういった「大変なくらし」は戦前までちゃんと続いていたのです。おとなにとっては大変な船場の年中行事も、子どもにとっては大きな楽しみでした。中でも、氏神さんの夏祭りを船場の子どもらは指折り数えて待っていました。北船場の愛日小学校と集英小学校の校区の境界は、氏神さんである御霊神社と坐摩神社の氏地の境界でした。
江戸時代の氏地共同体が明治以後は小学校の校区共同体に重なったのです。「御霊さん」にしろ、「坐摩さん」にしろ、その夏祭りは氏地の町中あげてのお祭りです。子どもにとっては、家族や店の人々、町内の人々、まわりの大人という大人全員が大騒動してお祝いするお祭りです。こんなうれしい楽しいことはありません。
平野町と順慶町には夜店が出てにぎわい、南や北の繁華街へ出れば一流の芸能を堪能できました。
昭和6年には郷土雑誌『上方』が創刊され、執筆者には一流の上方文化人が顔をそろえました。
幕文楽・歌舞伎をはじめとする上方芸能は大輪の花を咲かせ、花街が栄え、それらを支えたのは船場の人々だったのです。
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(1)明治30年建造当時 御殿学校といわれた集英尋常小学校の正面
(2)明治29年竣工の愛日尋常小学校
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