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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2001 第11号> |
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「船場」道修町 薬種問屋
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大阪城の西方、海に向かって広がり、四方を川と堀に囲まれたまちー船場。その昔、砂浜で馬を洗っていたから、"洗馬"、戦の場であったので"戦場"、海岸線が内陸に入り込んでいた頃、無数に打ち寄せていた波を表す"千波"、船着き場であったとういことから"船場"、など、時代によって様々な姿をあらわしてきた証左であろうか、その呼称については諸々のいわれがある。どれを採っても歴史的には一応の理屈はつく。
で、いわゆる"船場"のイメージであるが、経済都市大阪のその中心、商いの町という印象が強いように思う。
近代から続く商社や薬品会社が、現在も残っているということにもあるのだろう。しかし、商い=船場と言われながら、この地域で綿々と営まれてきた生活にまつわる習慣や風俗、あるいは言葉やしきたりなどほとんど残ってはいない。
時の流れといえばそれまでであろうが、大阪の歴史を語る時、商都としての記憶が何らかの形で受け継がれていくことが望まれる。
写真は明治後期ごろの道修町である。町なみなど大きく変わってしまっているが、まだ、丁稚や暖簾などの言葉が生活の中で生きていた時代である。
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船場の言葉
ちょろくさい事お言やるな
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中央区の淀屋橋交差点を西へ、二つ目の筋を南へ入ると、三井・住友銀行の入り口がある。石造りの、いかにも豪壮な建物であるが、その玄関脇右手に「松瀬青々生誕之地」と彫られた大阪市顕彰碑が建っている。青々は、明治2年に、旧大川町のこの地で薪炭商を営む家に生まれ、昭和12年に他界した、大阪を代表する俳人であるが、その作品に次の一句がある。
正月に事お言やるな
牧村史陽編の「大阪ことば辞典」によれば「ちょろい」は、「ぬるっこい。生ぬるい。にぶい。まどろしい。また、水道の出などのチョロチョロと細い場合にいう」とあるが、この区の場合は「めでたいお正月に、そんなショームナイ、ごちゃごちゃしたとこと言いなさんな」という、少々いらついた雰囲気もあり、船場の商家の構えや、店の土間や、座敷や台所の様子も見え、やわらかい形の、しかし、りんとした御寮さんの姿もくっきりと現れてくる。ことに「お言やるな」という、いかにも船場らしい言葉づかいが美しい。
「私の家は夏は涼しかった。私の家の北隣は路地であった。裏口からは、路地の奥から吹き通す風が、家の台所を吹き通すのであった。台所のソコは上げ床で、上げ板を上げると、二枚合わす蓋がしてあって、大きな水瓶が二つ生かっていた・・・・。
近所の家では、大抵水屋のま水を買ふていたが、私の家には、若い者がいつも二人か三人いたので、それが暁早うに西国橋の西詰の川岸から、キレイな水を汲んで来て水瓶の満たすのであった」これは明治前期の家の構造とその生活を描写した青々の文章であるが、前掲の一句と合わせて、古き良き船場の風景が目のあたりに浮かびあがってくる。
なお、他に「ちょろくさい」の言葉を使った
ちょろくさい鍵に我が家を頼んどる 泡舟
があるが、この句の「ちょろくさい」はごく一般の大阪弁であり、青々の句と比べてみると、その違いがよくわかって面白い。
なお、微妙であるが、よく似た「ちょろこい」には、「愚鈍な」という意味があり、前後の言葉との関係で、いろんな響きを生じるわけである。
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はんなりと船場
(1)船場概要 大阪天満宮研究所研究員 近江 晴子 |
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船場とは、土佐堀川・長堀川・東横堀側・西横堀川の四つの堀川に囲まれた長方形の地域を指します。今では、長堀川と西横堀川は埋められ無くなっていますので、川に代わる長堀大通りと阪神高速道路が境界となっています。船場の南が島之内で、長堀川・道頓堀川・東横堀川・西横堀川に囲まれた地域です。
船場・島之内といえば大阪の中心です。とくに船場は商業の町大阪の中核をなすところ。今、ビルが建ち並び、住む人々を失い、子どもの姿が消え、ビジネスだけの町になってしまいましたが、江戸時代からつい何十年か前までは、そこに住んだ人々が何代にもわたって育んできた独特の生活文化である船場文化が、息づいていた町だったのです。
船場の町の基礎をつくったのは、もちろん太閤さん、豊臣秀吉です。秀吉の晩年から秀頼の時代にかけて、堀川を掘り、その土で海辺の湿地帯の造成をしていきました。そして、東横堀川と西横堀川の間に東西にのびる道路をつくり、その道路と道路の間に太閤下水(背割下水)を通しました。
こうして整備された新しい土地ー大坂城惣構(おおさかじょうそうがまえ)の外堀である東横堀川以西の地ーが船場で、大坂城惣構内の上町にあった町屋が移転してきました。
太閤さんの時代に船場の町が完成していたわけではありませんでしたが、大坂冬の陣、夏の陣で大坂の町が壊滅したあと、徳川幕府が、太閤さんのやり方を受け継いで大坂の町を見事に復興、発展させたのです。江戸時代に入って早い時期に、船場の町並みはふたたび整備されました。
江戸時代初期に西横堀川の開削が完成し、西横堀川から江戸堀川・京町堀川など幾筋もの堀川が西へ開削され、現在の西区の町々が形成されていきました。
江戸時代の船場では、東西の通りをはさんで向かい合う家々が同じ町内を形成しました。ですから船場では東西の通りがメインで、北から南へ通りの名を覚える数え歌がありました。私の覚えているのは次のようです。
浜(はま)、梶木(かじき)、今は浮世に、高(こう)、伏(ふし)、道(ど)、平(ひら)、淡(あ)、瓦(かわら)に、備後(びんご)、安土(あづち)、本(ほん)、米(こめ)、唐物(からもの)、久太(きゅうた)久太に、久久宝(きゅうきゅうほう)、博労(ばくろう)、順慶(じゅうけい)、安堂(あんど)、塩町ーきちんと書くと、浜(北浜、土佐堀浜通)、梶木町(内北浜)、今橋、浮世小路、高麗橋(こうらいばし)、伏見町、本町、米屋町(南本町)、唐物町、久太郎町、南久太郎町、北久太郎町、北久宝寺町、南久宝寺町、博労町、順慶町、安堂寺町、塩町、浜(南浜、長堀川の浜)となります。
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