大阪の都心を流れていた多くの堀川がうずめられてしまった今となっては、江戸時代の大坂の人々がいかに堀川と深く関わって暮らしていたか、想像しにくくなりました。
江戸時代、大坂の町中では、荷物の運搬はほとんど川船にたよっていました。荷物ばかりでなく、人も大いに船を利用しました。旧難波橋(現在の難波橋より一筋西に架かっていた)のあたりには、夕刻ともなれば、花火が上がる、たくさんの涼み船が出る、橋の上には大勢の涼み客、大川の浜(川岸)には茶店が出て、それはもう賑やかだったようです。
難波橋から少し堂島川を下ると、大阪高等裁判所がありますが、そこは鍋島藩の蔵屋敷があったところです。蔵屋敷の前の堂島川の浜は「鍋島浜の夕涼み」といわれ、夕涼みの場所、月の名所として有名でした。
大川納涼のクライマックスは、何といっても天神祭の川渡御です。夕刻、旧難波橋の北詰西の浜から御神輿が乗船され、戎島御旅所(現西区本町一丁目)へ向かって堂島川を下られます。本誌前号にも書きましたが、安政2年(1855)、西国奉母大旅行の途次、大坂を訪れた清河八郎は、旧暦6月25日に今橋築地の瓢箪屋の火の見台に上がって、天神祭を楽しみました。前日24日、天神祭宵宮の日に大坂へ入ったばかりで、船を雇うことが出来なかったのです。
清河八郎一行は、このとき、瓢箪屋に11泊しますが、その間に3度、船遊びを体験しています。6月28日には、知り合いの御堂前花屋徳兵衛方を訪れた帰り、花屋が用意してくれた船で、花屋の娘らも一緒に西長堀川から大川を遡って、中之島に船を繋いで、母もまねいて、賑やかに船中夕涼みとしゃれこみます。そのあと、船で母は瓢箪屋へ、花屋の子どもたちは西横堀川へ入って家まで送りとどけ、再び瓢箪屋へ帰ろうとしましたが、すっかり夜もふけたため、堂島川から蜆川へ入って、北の新地の大楼「平鹿」へあがりました。
7月1日には、瓢箪屋の主人帯屋源兵衛にすすめられて、網船をやとい、瓢箪屋から船にのり、木津川口、千本松へ。網を打ち、鯛の子、スズキの子(セイゴ)、ボラの子(イナ)などをとり、夕刻上げ潮に乗って、道頓堀川から東横堀川へ入って楽々と今橋築地まで帰っています。
「船遊びはすべて坂都第一の遊びなれども、中に網舟は尤とも佳興多く、一入のたのしみあり。網も至て上手なるものにて、時により大魚を獲る事ままあり。酒肴の程はいつにても必ず得るなり。潮の加減にて多少ありとぞ。されども魚の多少にかぎらず、紀州、四国、兵庫辺の山々あらわれ、いろいろの風光ありて、中々の眼前景あるゆへ、風雅の楽を好むものは船遊にきわまる也。」と彼の旅行記「西遊草」に記しています。7月3日には、あまりの暑さのため、難波橋のかたより船に乗り、天神橋のあたりで船をとめ、川に入って暑さをしのいでいます。
幕末から150年後に生きている私たちも、生き残った大阪の川にもっと親しみたいものですね。
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(1)「摂州難波橋天神祭の図」二代目歌川広重画 (大阪天満宮蔵)
(2)「木津川口千本松」芳雪画(「浪花百景」) (現西成区南津守2丁目)
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