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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2000 第9号> |
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水のある風景「毛馬の洗堰と閘門」
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大阪は古くから自然河川と堀川に恵まれ、江戸時代は、全国の諸物資が集散する「舟運の商都」として栄え、明治以降も、産業・経済を支える「水の都」といわれた。
しかし、この「水の都」は、同時に河川の氾濫による洪水被害が絶えず、明治18年の淀川大洪水では、市街地とその周辺農地の約1万5,000haが最高4.4m浸水し家屋の流失・損壊は約3万戸に達した。そこで、この有史以来の水害の根絶をめざして、明治31年、国費による淀川大改修工事が着手され、明治43年に完成した。
工事の規模(大阪支部)は、上流豊里付近の湾曲部修正と、毛馬以西の、屈折激しい旧中津川を幅員・流路変更しながら、平均幅750m、延長15kmにおよぶ大運河を大阪湾に疎通して、淀川本流とする水量調節の洗堰を建設するものであった。
写真の右前方に見えるのは先堰、中央の開口部は閘門、左の水路は、左岸堤防沿いの中津運河である。
洗堰は、下流の水位および水量を調節するために、川幅いっぱいにつくる堰で、大川では、流砂の堆堰を防いで下流の大型船舶航行を助けた。閘門は、扉を開閉しながら、高低差の大きい新淀川と大川の水面に船を昇降させる装置、中津運河は、淀川改修工事で生じた土砂・運搬用の水路でもある。
20世紀初頭に建設された毛馬洗堰は、21世紀を目前にした今も健在である。
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故事・ことわざに学ぶ(2)
「遠水近火を救わず/風樹の嘆/鶯鳴かせたこともある/英雄色を好む」
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「故事」は、昔から伝えられた興味ある話、「ことわざ」は、古くから人びとに言いならわされた教訓や風刺などの意味を、短く表現した語句で、中国の古書によるものが多い。軽い言葉遊びの要素も含んでおもしろいが、本来は、複雑で不確かな人間社会を生きぬく知恵として、時には一国の生死を分ける切り札として使われた。
遠水近火を救わず
遠いところにたくさん水があっても、隣の火事を消すには間に合わない。すなわち、遠いものは急場の役に立たないの意であるが、原文(「韓非子・談林上」)は「火を失して水を海より取らば、海水多しと雖えども、火は必ず滅えざるなり。遠水は近火を救わざるなり」とある。
平成7年1月に発生した阪神・淡路大震災は、文字どおり「遠水近火を救わず」家屋の焼壊約24万9,000戸、死者6,430人の被害を出した。類句に「遠くの親戚より近くの他人」があり、行政も市民も、心して日ごろを大切にすべきことを教えている。
風樹の嘆
原文に「それ樹しずかならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず」(「韓詩外伝」)とある。世はままにならぬ事を嘆く言葉であるが、ことわざの良さ、おもしろさは、理屈を言いながら、表現が写実的で情趣があり、説得力に富むことであろう。
鶯鳴かせたこともある
現代の若い人には、一読して「意味ないじゃん」と笑われそうな一句であるが、「梅干し婆はしなびれておれど、鶯鳴かせたこともある」と続けて言えば、じんわりとその意味が伝わって、含み笑いが洩れてきそうである。
短い言葉で人間世界の断面を見事に切って見せるのがことわざの妙である。
英雄色を好む
よく知られた一句で説明するまでもないが、問題はこの一語に続く「色を好むもの必ずしも英雄ならず」にある。すぐれた大人物もまた同様に人間であり、世俗の欲をもっているが、欲物は、この欲だけ英雄に共通していることで胸を張る。勘違いとは、こういうことを言う。
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大阪今昔記(2)
今橋築地(蟹島新地)〜船場うちにあった歓楽境〜 大阪天満宮研究所研究員 近江 晴子 |
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大川から東横堀が南へ分流する入口西側のさきっちょは、天明3年(1783)ね築かれた新地で、ちょうど船場の北東の角に位置しており、「今橋築地」あるいは単に「築地」、または「蟹島新地」とよばれるようになりました。
その場所が、東横堀に架かる今橋の西詰北にあたるところから、今橋築地となったのですが、蟹島新地の名称はいかがでしょうか。全くの私見ですが、新築地の石垣に、たくさんの蟹(クロベンケイガニ)が棲みついたからではないでしょうか。子供のころ私は、西横堀の川縁んいあった自宅の出窓から、石垣に群れるクロベンケイガニをパンくずで釣ってよく遊びましたから。
江戸時代、中之島の鼻は現在のように東へのびておらず、その鼻先は難波橋にも届いていませんでした。しかも、難波橋は、今は堺筋に架かっていますが、もともともう一つ西の難波橋筋に架かっていましたので、大川へ少し突き出た今橋築地からの眺望は、眼前をさえぎるものは何もなく、すばらしいものでした。
やがて、築地には料亭や料理旅館が建ち並び、船場にはめずらしく、粋な雰囲気の場所が出現したのです。また、東横堀東岸から築地へ葭屋橋が新しく架橋され、より便利になりました。その築地葭屋橋の近くに「瓢箪屋(帯源)」という料理旅館がありました。幕末から明治にかけて瓢箪屋の当主であった四代目帯屋源兵衛は茶人で、「瓢遊」と号し、瓢箪の大コレクターでした。瓢箪をこよなく愛し、お茶道具はもちろんのこと、料亭で使用する食器類から、旅館の浴衣、座布団など、ありとあらゆるものを瓢箪のデザインでそろえたという、幕末大坂が生んだ洗練された文化人でした。
安政2年(1855)、清河八郎が母亀代を連れての西国巡り奉母大旅行の途中、大坂へ立ち寄り、この瓢箪屋へ宿泊します。6月25日の夜、八郎一行は瓢箪屋の火の見台にのぼって、美酒と佳肴を味わいつつ天神祭船渡御を見物し、水の都大坂の夏を満喫しました。八郎は、このときの旅行記「西遊草」の中で、瓢箪屋と主人源兵衛を高く評価しています。
瓢遊帯屋源兵衛は、天満の天神さんを崇敬し、大きな瓢箪石を天満宮へ奉納していたのですが、ある時、大阪天満宮へ瓢遊のご子孫にあたる方がたずねて来られ、それまでわからなかった瓢箪石の謎が解け、今橋築地の瓢箪屋のことをそのときはじめて知りました。
今橋築地には、瓢箪屋のほかに、「阪本楼」「多景色楼」「紙政楼」「大喜楼」「専崎楼」「加賀伊」などの料亭や料理旅館が軒を連ねていました。木戸孝允は、加賀伊を贔屓にしてしばしば宿泊し、孝允の揮毫により「花外楼」の文字に変わりました。専崎楼と花外楼と石町一丁目の「三橋楼」が、明治八年(1875)、史上名高い大阪会議の舞台となりました。この華やかだった街区も北浜に市電が通って分断され、徐々にその面影を失っていきました。唯一、高級料亭花外楼のみ、もとの場所で盛業中です。
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(1)「増脩改正摂州大阪地図」文化3年(1806)刊
(2)「今橋つきぢの風景(国員画)」(浪花百景」安政年間頃刊) 手前が今橋、奥が葭屋橋
(3)「御定宿 御遊席」大阪今橋つきぢ帯源でござります
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