江戸時代に、大阪天満宮(以下天満宮と記す)は七度回録(火災)にあい、七度再建しております。貞享3年(1686)・享保9年(1724、妙知焼)・明和5年(1768)・安永6年(1777)・寛政4年(1792)・天保8年(1837、大塩焼)・弘化3年(1846)の七回の火災で焼けました。
中でも、享保9年の「妙知焼」は江戸時代の大坂における最大の火災で、天満宮も全焼してそれまで伝えてきた貴重な古文書類をほとんど失ってしまいました。ただ、幸いなことに、妙知焼以後の回録では天満宮の古文書は焼失を免れ、今に伝えられています。
江戸時代後期に神主(宮司)職をつとめた滋岡家七代長昌は、非常にレベルの高い文化人で、連歌をよくし、当代一流の人々とさかんに交流をしました。しかし、彼の在職中、天満宮は安永6年と寛政4年の二度に渡って焼けています。安永6年の回録後、9年目の天明6年(1786)に勅命正遷宮をやり遂げ、立派に社殿を再建しましたが、そのわずか6年後、寛政4年に再び「社頭焼亡」してしまします。ところが、また9年後の享和元年(1801)に正遷宮を斎行し、社殿を再建しています。この二度にわたる再建工事には莫大な費用がかかったことでしょう。それを成し遂げた神主滋岡長昌と社家たちの努力はたいへんなものだったでしょう。と同時に、宮の再建を支えた氏子・崇敬者である大坂町人の力を見落とすことは出来ません。
さて、七代長昌が神主職を嗣がせた二人の息子、八代芳長と九代長棟が次々に亡くなったため、未娘千枝に京の飛鳥井家から功長を婿養子に迎えて、神主としました。十代功長は若くして天満宮の神主職を嗣ぎ、しばらくは養父長昌の後見があってよかったのですが、文政13年(天保元・1830)に長昌が亡くなり、やがて天保8年の「大塩焼」に遭遇します。思えば、江戸時代に天満宮の神主職をつとめた滋岡家代々の当主のなかで、十代功長が一番大変な時期にぶつかったと言えるでしょう。大塩焼のとき、功長はまさか天満宮まで火が来るとは思っていなかったところへ、いきなり煙が来て、大騒動になりました。うち続く天保の飢饉に、大塩平八郎は救民の旗印を掲げて挙兵したものの、結果は大塩焼で大坂中が一層の不況に見舞われ、とくに被災した天満地域の受けた打撃は大きいものでした。その大不況の中、功長は8年後の弘化2年(1845)に正遷宮を斎行し、社殿を再興しました。その翌年弘化3年にまた回録。しかし、この時は本社(本殿・幣殿・拝殿)と表門は焼けずにすみました。
これ以後、天満宮は、明治18年の大洪水、明治42年の「北の大火」、昭和20年の「大阪大空襲」など、数々の災害から守られて今日に至っております。弘化2年に建てられた本社が、現在の本殿・幣殿・拝殿で、もう150年以上年月を経ています。
|
(1)「摂州大坂 天満宮御社内之図」(宝暦6年〜安永6年刊)滋賀 長平氏蔵
この図の社殿は滋岡家長昌が神主のときに焼失した。
(2)大正頃の本社、(絵はがき)。 屋根は檜皮葺 大正13年、銅板葺に屋根替え
|