大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2000 第5号>

大阪百景むかし巡り「西長堀の木材問屋」


西長堀の木材問屋
四ツ橋交差点の風景(明治41年ごろ)

時は明治41年ごろ、場所は四ツ橋交差点である。水面は東(手前から)西へ流れる長堀川で、その南岸沿いに木材の卸問屋が並び、浜に丸太が積みあげられ、船も見える。 現在の大阪の街は、近世の城下町が原形である。大川(旧淀川)とその支流を軸に東横堀川・西横堀川・道頓堀川・立売堀など、数多くの堀川が開削され、その堀削残土で宅地が造成されて城下町が形成されたが、木材市場は、はじめ、舟運に便利な木津川寄りの立売堀に立地し、その後次第に川幅の広い西長堀に移動した。 「長堀木材浜 関西土佐及び日向より諸材をここに積上させて、朝の市に数千金を賈ふや。其場所は、長堀、堀江、道頓堀川、の浜辺にて所せまくまで双へ、それぞれの印を見て市を立てるなり」(「摂津名所折図絵」) これら木材問屋は、川岸にそれぞれ数カ所の木材市場を持ち、明治以降も独占権を所有していたが、明治40年に、西長堀川北岸に市電東西線(九条中通ー末吉橋)の軌道が敷設されることになって、大阪市がその用地を買収した。これを契機に、一部の木材市場は境川運河沿岸に移動、さらに大正時代に千島町(現大正区)に移り、境川運河市場を廃止した。大正末期の市内の木材市場は、長堀・千島・夕凪橋(港区)の3カ所であるが、都心部に位置する長堀の木材問屋は、戦後急速にその数を減らしながら、今日なおわずかに名残をとどめている。 写真は、四ツ橋交差点の東西南北から、市電が連続してにらみ合っているような、異様な風景である。市電の交通整理員らしき姿も数人見えるが、輸入ものらしい自動車や自転車、荷台つきの三輪自転車がゆっくり市電の前を走りつつあり、黒マントの人影も見える。 なお、明治41年に発表された「大阪市街電車唱歌(21番)」は四ツ橋交差点・長堀付近を次のように描写している。
5.新町過ぎて四ツ橋の 風景一目に見え渡る線路もここは交差点 水は十字に流れたり
6.それより東に佐野屋橋 心斎 三休 長堀の橋々過ぎて板屋橋 末吉橋こそ終点よ


今に生きる、名言・家訓(2)

「彼は我に在り」


「彼は我に在り」

「分際相応に、人間衣食住の三ツの楽の外なし。身代さもなき人、霜さきの金銀あだにつかふなかれ」(西鶴「世間胸算用」)

なんだかんだというが、人間、結局は衣食住を楽しんで生きている。したがって分相応に楽しむのであれば、それは奢りではない。だが、それほど金を持たぬ人間が、金持ちと同じように金を使ってはいけないという。
私たちは、分不相応に借金し、分不相応に衣食住を楽しみ過ぎたふしがある。そして見事にどん底に沈んだ。西鶴は、はじめ金持ちの世界ばかりを書き、金銀哲学や商法を盛んに述べたが、やがて中小企業の、どうあがいても金に追いつめられてゆく世の中の仕組みを描くに至っている。人間の弱さも、世の矛盾もよく承知していた。であるからなおのこと、分相応の衣食住をもってこの現実と戦わねばならぬ。

「小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ。樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも水洩れの方を大切とみなければならない。」(岩崎弥太郎)

大阪海港直後の明治3年、大阪西長堀に、土佐開成商社が設立され、同6年に三菱商会と改称、後年の三菱財閥のスタートが切られた。冒頭の言葉は、旧土佐藩士の従業員たちに放たれた名言として知られる。
廃像と化していた武士社会から、実際が物いう実業社会への急転についていけず、当然ながら多くの旧藩士が「金に頭を下げろとは何事だ」と三菱商会を罵ったが、明治初期の時代背景と岩崎弥太郎一流の哲学が鳴り響いて凄味がある。
樽の水洩れも、当たり前のことだが、これに徹して防ぐのは容易でない。今日の経済界はいま、水洩れ防止のリストラに全力をあげているのである。

「手代を見立つる事専用に候。少き失を挙げて多きを棄つる事なかれ。少き益を取って大きなる失を求むる事あり、家来の善も悪しきもまた主人たる者の心なり。
家業に暗き主は其手代の働きを知らず、下に能力ありとも用ふる事なし。徒に差置けば其者は主の暗きを恨み、退く心出て来るものなり。
実を以て人を使えば人赤実を以て従ふ。邪なれば斯くの如し。彼れは我に在り、能く能く存すべき事」(三井家「宗竺遺書」)

手代は、番頭と丁稚の中間の身分をいい、「目立つる事」は見て選ぶことをいう。
能力のない経営者は、すぐれた従業員の小さな失敗をとがめて小利を得るが、結局その良き人材を失うに至り家業は傾くという。「実を以て人を使えば人亦実を以て従う。
邪なれば斯くの如し」は当然であるが、これに続く「彼は我に在り」という一語は、じつにいい言葉である。彼の善き、悪しきは、すべて私の内にあるというのであって、商道深く入って人間の真実を言いあてている。
私達は常に不十分である。立派でなく不十分であるからこそ、このはるかな目標を持ち続けようではないか、といっているのである。

うんちく辞典(5)

大阪四ツ橋・電気科学館

四ツ橋のたもと、その北東角に昭和12年(1937)3月、大阪市立電気科学館が開館した。地上8階、塔屋7階、鉄骨鉄筋コンクリート造、当時としては極めて堅牢で、近代的な外観を誇っていた。電灯市営10周年を記念して、昭和8年(1933)、電気に関する博覧会の開催とともに、恒久的な電気知識の啓発施設の設計が計画されたのである。 東洋初のプラネタリウムが呼びもので、当時の最先端の電気化学技術を展示、紹介していた。1階は、電気器具機械の陳列、販売をはじめ、電気に関するサービスをする”市電の店”、2階は、写真伝送機、自動電話交換機やテレビジョン電話など、微弱電波を利用する機器や無線電信電話に関する機器を陳列する”弱電・無電館”、順に、3階は変圧器や豆電気機関車など、電力の発生や電力電熱の利用方法をわかりやすく説明し、新しい活用方法まで紹介する”電力電熱館”、4階は、照度実験装置や水泳プール照明模型など、新しい照明方式の原理を実物、模型により説明する”照度館”、5階は、電界や発電機の解説をする装置など、電気の原理が見てわかるように陳列する”原理館”という構成になっていた。 そして6階が世界にも20数台しかなかったプラネタリウムを設置する天象館であった。 プラネタリウムは、一種の天体運行照明装置で、一晩の星の動き、春夏秋冬の角季節の星の様子を、半円形の天井いっぱいに映し出していた。円形の部屋の中央に置かれた装置から映写された星空を、仰ぎみるのは当時も、天体知識の向上とともに、ロマンチックなものであったという。 9階屋上には、プラネタリウムのドームが約3分の1ほど突き出ていた。この部分は、色モザイクタイルで、縮尺60万分の1大地球儀があらわされており、子どもの遊び場ともなっていた。 長堀川(現長堀通)と西横堀川(現阪神高速)が交差する四つ橋、電気科学館の建つ吉野屋橋から西へ四番目の橋を富田屋橋といった。 いまから約200年前、この橋の上で、天文学者 間 長涯(はざまちょうがい1756〜1816)が天文観測をしていた。江戸時代、科学的手法を用い当時、天文研究の最先端であった間長涯と、プラネタリウムを設置した電気科学館が、この四つ橋あたりで結びついたのも奇縁といえるかもしれない。


大阪市立電気科学館が完成
四つ橋ほ北西方角に昭和12年3月、大阪市立電気科学館が完成、オープンした。 プラネタリウム映写機
開館当時のプラネタリウム映写機。 エントランス
開館当時のエントランス。

写真提供:株式会社 大林組

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