明治43年(1910)3月、船場北浜の地にて大阪で最初の西洋式演劇場「帝国座」が開場した。煉瓦造、3階建、建坪260坪、外壁は西洋風の洒落た様式である。当時、新派の俳優として名声を上げていた川上音二郎(1864〜1911)が、実業家などの援助により建てたものである。
音二郎は、明治20年(1887)ごろ、「権利こうふくきらひなひとに 自由湯をばのませたい オッペケペオッペケペッポーペッポーポー」というオッペケペ節で、自由民権思想を基に、政治・社会を風刺し、人気を博していた。
その後、「板垣君遭難実記」などの書生芝居、「ハムレット」などのシェークスピアの翻案劇の上演をはじめ、その間には、妻貞奴(日本で初の”女優”)とともに、一座を率いてアメリカ、ヨーロッパへの海外巡業を行っている。
帰国後、音二郎は、劇団の革新と、”新しき芸術の理想を日本に行いたいと思いたる平生の素志を遂げたる”ものとしての劇場の建設にとりかかる。それが大阪”帝国座”であった。
会場前のセレモニーでは”多くの客をむやみに収容してむやみに営利を心がけるものではない”、”芸をやる舞台を広くして劇場の半分とし、天井を高くして道具をつり上げるようにしつらえ、幕間を短くして客に退屈させず、下足のまま入場するようにして手間をはぶき、努めて気楽に見物し得る方法を取り、脚本をえらびて文芸の趣味を進むるにあり”という口上を述べ、帝国座建設にあたっての注意とさまざまな工夫を紹介している。
しかしその翌44年(1911)、帝国座上演期間中、病に倒れ、楽屋で息を引きとる。志半ばの死であった。
帝国座は、音二郎の死後、大正初めごろまで興業は続けられたが、その後は、住友銀行、大阪カトリック教会となり、その外装も若干の変化がみられる。現在は住友信託銀行南館となり、昔日のおもかげは、いまはない。ビルの北側にたてられた「帝国座跡」の碑が、この船場の地に、当時の先端の演劇が行われていたことを伝えてくれるだけである。
参考資料 明治ニュース辞典(株式会社毎日コミュニケーションズ)
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帝国座
周辺のまちなみ(大正5年ごろ)
大阪カトリック教会となった「帝国座」。外観に変化が見られる。
写真提供:株式会社 大林組
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