●天神祭と御文庫講
日本の三大祭の1つといわれる天神祭は千余年の昔、天満宮ご鎮座の翌々年天暦5年にはじまった。現在のように祭礼のすがたが整ってきたのは秀吉の大阪築城のころで、更に元禄時代には盛んになった。わが御文庫講は万延2年にはじめて船団に参加し、書林講という名称だった。この頃続々と講が結成され、お迎人形や地車が各町内で作られ競った。こうして隆盛の一途をたどり、安永9年には84輛の地車が宮入したこと、昭和12年には渡御船列が200隻に達したことが記録に残っている。
●宵宮祭と陸渡御
御文庫講では宵宮祭で「文車」(フグルマ)を飾り参拝におとずれる仲間の人達に振舞酒を行っている。そして25日には講員20名が揃いのかみしもを着て「文車」を先頭に行列に参加する。祭神道真公がお旅所でお読みになる本をこの車に乗せてお供をするのが役目である。約2キロの道程を休憩をとり湯茶の接待を受け天神橋北詰めまで進む。ここで陸渡御は終わりである。陸渡御に参加し更に船渡御に参加する人はそれぞれの講が用意した船に乗りつぐ、出発の合図は一番のりばの指揮船から出る。ここから出る船は固定船や列外船を含めて50隻たらずである。いずれも御鳳輦船(ゴホウレンセン)のお供をする船で供奉(グブ)船と呼んでいる。供奉船は船列を整えて堂島川、大川を遡行し都島の飛翔橋まで渡御する。一方、天神祭を協賛する企業の船約50隻がそれぞれのPRをかかげて同じ時刻ごろ飛翔橋から天満橋を目指して出発する。
この頃からようやく夕闇がせまり西の空が暗くなってくると、いよいよ花火の打ち上げである。頭上で炸裂する花火は最高だ。花火の打ち上げには色々の規制があって大変むつかしいと聞く。花火講の立川さんは親子で頑張っている。
話は変るが御文庫講へは台船と呼ばれている貨物船が34日間貸与される。これを祭の船らしく艤装するのだ。貨物船なので底が深く目の高さまでかさあげして床を張る、ここであまり値切ると底が抜けまっせと云う笑話がある。赤のカーペットを敷いて机を置き座布団を敷いて御座敷スタイルとする、提灯をつり発電機を乗せて灯りをつける。トイレを設置するのが頭がいたい、大潮の時、水面と鉄橋の間が2m40cmしかない。
お弁当は夏場の事で一番気を遣う、昨年引き受けてもらった北浜K料亭の支配人、船が止まっている近くに保冷車を横付けにして時間ぎりぎり迄預かると云う気配りである。涙の出そうな話だ。
●供奉船と奉拝船
お祭の船に乗りたい、どうすれば乗れるのか、と云う問い合わせがかなりあるようだ。飛翔橋から出る企業の船(奉拝船)も人気があってキャンセル待ちをしている企業がかなりあるとか。講社連合会の席で、ある役員さんが、こんな挨拶をした。「船に毎年乗れる世話役の皆様は喜ばねばなりません、橋の上で見物している人が皆んな船に乗りたいと申し込んだら100年以上かかるのですよ」といった。100年待ちの計算はこうである。供奉船、奉拝船、固定船、列外船すべての船を合計して約100隻この船に平均100人が乗ったとすると約1万人である、橋の上の見物人は毎年100万人〜200万人とも云われている、割算の答は100年と云うことになる。
大阪書林御文庫講 日下福蔵(ワラヂヤ出版(株)代表取締役)
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●大阪書林御文庫講とは
住吉大社と大阪天満宮には写真のような御文庫の建物がある。これは大阪や京都付近で出版を行っていた開板業者が、初摺りを、発売に先立ち神前に奉納し、加護を祈念したことにはじまる。当初は数百冊であった奉納書籍が増えて何万冊にもなり、これを納める保管庫として建てられたのである。住吉大社の御文庫は享保8年(1714)に建てられ320年を経過した今も創建当初の姿を保持している。清浄優雅な2階建て8坪4合、白壁造りの土蔵である。住吉御文庫講という組織を作って運営していた。大阪天満宮は知恵の神様として信仰厚く享保15年(1730)に御文庫が建てられた。こちらは天満御文庫講という組織で運営していた。その後両講は同じような立場の人が同じような仕事をしているということで合併して「大阪書林御文庫講」となった。春秋2回(5月20日住吉大社、9月20日大阪天満宮)と日を定め議員相集り御神楽を奉上して初摺書の奉納を行った。大正9年5月御文庫は現在の場所に移された、2階建・白壁造りの立派な土蔵である。なお天保8年(1837)大塩平八郎の乱で庫内の書物は全焼した。しかし大阪天満宮には御文庫講以外からの奉納書が多く、まとまった物としては北区旅籠町で猶興書院を営んでいた漢学者南州近藤粋翁の蔵書2万余冊が大正11年翁の没後、門人がたから寄進された。ほかに大阪大学の懐徳堂文庫、関西大学の泊園文庫などがある。太平洋戦争の大阪大空襲(昭和20年3月13日〜14日)には両神社とも罹災をまぬがれた。
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