浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会
かわら版《第42号》2025
浪花百景「高津」

高津とは現在の高津宮のことで、大阪隆昌の基を築いた仁徳天皇を主神とする神社。
社伝によれば、貞観8年(866)、清和天皇の勅命によって仁徳天皇の難波高津宮を探索し創建したと伝わる。その後、豊臣秀吉の大坂城築城に際し、天正11年(1583)に現在の地(大阪市中央区高津)に遷座している。上町台地の上にあり、当時、社の西は断崖で、難波津全体から六甲の山並みや須磨浦までを見渡せる市中随一の展望スポットだったという。
右手には海鼠塀の神輿庫があり、その左手には遠眼鏡屋が望遠鏡を貸している様子が描かれている。石鳥居の下は西坂(縁切り坂)に続く。鳥居の向こうには道頓堀に架かる橋、さらに遠くの港に停泊する船の帆が見える。付近は梅の名所でもあり、境内には湯豆腐屋、神社西側には黒焼き屋、植木屋が立ち並んでいたという。蔵の左手には町並み、両御堂の大屋根、背景には大阪湾と六甲の山並みが描かれている。高津宮は、今も昔と変わらず人々に親しまれている。
大阪再発KEN記
上本町・高津宮 ~人々が集う場所に~
上本町は大阪市内唯一の高台である上町台地に位置している。いにしえの都・奈良につながる交通の要所として、古くから栄えてきたという。そして太閤秀吉の時代、このあたりは武家と寺社、商家の山の手の居宅としても利用されてきた。高津神社は、大阪隆昌の基を築いた仁徳天皇を主神と祭る神社で、貞観8年(866)、清和天皇の勅命により旧都の場所を社地と定めた。それが秀吉の大坂城築城により現在地に遷移することとなったのである。当時、ここは上町台地の西端であり、その西には海が広がっていたという。芳瀧が『浪花百景』の「高津」に描いた通りだ(上記参照)。その後、上町台地の西に徐々に砂が堆積して陸(湿地)に。そこに水路を巡らせて水はけをよくして、徐々に人が住む土地へと変わっていったという。
高津宮の社殿は元和元年(1615) 、元和の役で焼失したが、徳川家康により復旧された。そして江戸の太平の世、高津宮は落語や歌舞伎などの舞台としてしばしば登場。上方落語「高津の富」や「高倉狐」などがそれで、いつしか落語や芸能の神様としても知られるようになる。時代はくだって明治43年(1910) 、大阪電気軌道株式会社(現在の近畿日本鉄道)が誕生、大正15年(1926)には上本町がターミナルとなり、周辺はますます賑わっていった。しかし昭和20年(1945)3月、第二次世界大戦の大阪大空襲により周辺は壊滅的な被害を受けた。高津宮も、この時ほとんどの建物が焼失した。

終戦後、人々は焦土の中から立ち上がり、高津宮は氏子たちの尽力により昭和36年(1961) 、拝殿を始めとする建物は建て替えられ、みごとな復興を遂げた。それから半世紀以上を経た現在の高津宮の様子を見てみよう。
まず、表門鳥居をくぐり、石畳の参道を進んでいく。石畳の両側には桜の木があり、春にはお花見スポットとしても知られている。ただその昔は、梅の名所だったとか。百済から渡来した王仁博士が、仁徳天皇の即位を祝って「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の歌とともに梅花を奉ったという。その故事にならい、2月11日には献梅祭が行われる。
参道の石段を上がると本殿がある。高津宮には四季を通じて祭祀がある。夏の大祭では演芸や落語会が奉納され、絵馬殿では「だんじり囃子」にあわせて龍おどりが賑やかに行われるなど、浪速の夏の風物詩となっている。秋にはとこしえ秋祭り、高倉社御火焚祭なども行われる。また拝殿裏の西坂は縁切り坂とも呼ばれている一方、その南側には南北2方向から登る階段があり、こちらは「縁結びの坂」と呼ばれている。どちらにも願いを掛けて訪れる人があるのも、庶民のための神社ならではだ。
人々が行きかい賑わう上本町には、令和7年(2025) 開催の大阪・関西万博会場と結ぶシャトルバスの運行が予定されている。上本町周辺はこれからも発展し、高津宮はそこに集う人々の心の拠り所であり続けるだろう。



なにわびと
牧村 史陽(まきむら しよう) ~船場生まれ、大阪弁をこよなく愛した大町人学者~

牧村史陽(本名は源三)は、大阪の郷土史家、方言研究家。大阪弁に魅了され、それを生涯の仕事として取り組んだ稀代の大町人学者とも呼ばれる。牧村は明治31年(1898)10月、大阪船場の木綿問屋の長男として生まれた。生粋のなにわっ子で、大阪大倉商業学校(現・関西大倉高校)卒業後、父の死を機に家業を別家に譲り、独力で郷土史関係の実地調査、記録作成に打ち込む。昭和23年(1948)から雑誌『大阪弁(全7巻)』を編集。さらに昭和27年(1952)から郷土史研究グループ「佳陽会」を主宰。大阪の歴史、地理、演劇などを実証的に調査し、新聞や雑誌などに発表した。現地調査を重視し「郷土史は足で書け」を座右の銘とし、実際に大阪府下の史跡や名所をくまなく歩き回った。その際には写真も撮影、その数は数万枚にのぼり、大阪の寺社・史跡•名所などの写真資料は、大阪の都市景観研究における貢重な資料となっている(その一部は関西大学なにわ大阪研究センターで所蔵)。
牧村は同好の士と集まって「大阪ことばの会」を結成。その機関誌『大阪弁』が好評で、会友106名その他の協力を得て、昭和30年(1955)に『大阪方言事典』を刊行した。こうした仕事ぶりから、
草創期のラジオ番組「大阪アラベスク」(昭和27年9月~ 30年7月放送)に出演したり、昭和35年(1960)封切りの映画「ぼんち」(監督/市川崑)の時代考証に起用されたりと、多方面で活躍した。昭和53年に大阪文化賞を受賞。そして『大阪方言辞典』から二十数年の歳月を経て、修正と新原稿を加えた『大阪ことば事典』を、翌54年(1979)に出版。市井の老若男女のことば6400を取りあげており、町の雰囲気や人々の生活、人情まで生き生きと映し出し、全項目にアクセントも付いている。同年4月、80歳で没。