浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会

かわら版《第21号》2005

船場と呼ばれていた区域の西辺、西横堀川に架かる新町橋。橋を西(左)に渡ると”新町”に出る。寛永7年(1630)に開かれた大坂で唯一の公許の花街である。土佐堀川と道頓堀川を結び、西に向かっては何本もの堀川が伸びる、西横堀川。この川と交差する土佐堀川と長堀川、流路の続く東横堀川に囲まれた地域が船場で、この商いの町と廓を直接繋げていたのが、新町橋であった。町からの願い出が許可された”町橋”である。
通りにも橋の上にも、たくさんの人の姿が描かれている。川には舟が浮かび、水運の利が活かされているのがうかがい知れる。橋の真ん中あたりには数点の出店も見えるが、当時から夜店も出るほどで、橋の東詰、船場順慶町の先には心斎橋筋、その南の道頓堀とは人の流れがあり、大変な賑わいをみせていたという。新町橋は”ひょうたん橋”とも呼ばれ、橋が架かる新町瓢箪筋町に由来する。
新町とはその名のとおり、”新しい町”で、寛永7年(1630)ころ、先の瓢箪町、佐渡島町、越後町、新堀町、新京極町の五曲輪(ごくるわ)を中心に町があつまりはじまった。また、隣り合った九軒町の揚屋「吉田屋」は井原西鶴の『好色一代男』や近松門左衛門『夕霧阿波鳴門』にも名前が出てくるほど古くて有名であった。
明治23年(1890)、新町焼けと呼ばれる大火で新町の大半が焼失、町の姿も変わっていくが、昭和初期までは木造の古い構えの店も懐かしいたたずまいを残していた。新町橋は、明治5年(1872)、東横堀川の高麗橋に続き、大阪で2番目となる鉄橋に、昭和2年(1927)には鉄筋コンクリート製に架け替えられる。
現在では、橋も町も当時の面影を残すものはなにもない。

上の絵は、西区新町に架かる橋の渡り初めの風景である。昭和2年だから私はまだ生まれていない。
何だか皆んな楽しそうに集まって見物している。
花街へ渡る鉄筋コンクリートの橋が完成したから料亭やお茶屋からきれいどころの芸妓も参加して華やかに艶めかしく、渡り初め。
わんさとヤジ馬が寄ってきて警官も汗だくのご様子…。
近松の浄瑠璃「夕霧阿波鳴門」で知られる吉田屋もある花街。
男と女の恋と歓楽の巷(ちまた)にいざなう新しい橋なのだ。
☆ふと、我にかえって高架下の西横堀川を渡ると「新町橋跡」の碑が建ち、その西の向こうは、ビルと車の間(はざま)だった。
ああ、いま、私は昔の幻をみていたのだろうか…。

このコーナーでは、商いと学問がいきいきとしていた大阪文化の特徴でもある町人学者を取り上げていく。

商都大阪の遊興の地は、昔も今も「キタ」と「ミナミ」がその代表である。淀川の毛馬から南下する大川は、天満橋付近から西に向かい、中之島剣先で堂島川と土佐堀川に分かれるとすぐ、土佐堀川から南流する東横堀川を分岐し、その南端部で道頓堀川に連絡する。
「ミナミ」の繁華街を流れる道頓堀川には、東から下大和橋・日本橋・相合橋・太左衛門橋・戎橋・道頓堀橋・大黒橋と、いかにもロマンに満ちた橋が並ぶ。このうち下大和橋は、江戸時代中期の浄瑠璃作家近松門左衛門の『生玉心中』に登場して「こころこころの商ひも、みな世渡りの大和橋」と描かれ、日本橋は紀州街道の出発点に位置する公儀橋であった。
また、相合橋は「あいあうばし」と呼ばれて、道頓堀北川の遊女町と南側の芝居橋を結んだ男と女のドラマの舞台となり、太左衛門橋は、橋の南詰めで歌舞伎小屋を開いた興行師大坂太左衛門に由来する。
近・現代の文芸作品にもよく現れ、織田作之助は小説『大阪の女』に、「太左衛門橋は道頓堀と宗右衛門町をつなぐ橋であり、さまざまな人の、さまざまな思い出がこもっている」と書いた。
大阪第一の商業の町心斎橋に架かる戎橋は、豊臣時代に開削された道頓堀橋と同時に架けられた古い橋で、今宮戎の参道として賑わった。大黒橋は、古くは難波橋と呼ばれ、紀海音(きのかいおん)の浄瑠璃『難波心中』に登場する。橋名は、木津の大黒神社への参道の当たっていたことになる。
御堂筋建設時に造成された道頓堀橋とともに、これらの橋はいずれも鋼板桁に改築されているが、川面に映る橋の影は、商都大阪の人間ドラマを色濃く漂わせて美しい。