大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2024 第41号>

浪花百景「住吉反橋」


芳瀧(よしたき) 画(大阪城天守閣蔵)


住吉反橋

住吉大社の象徴的存在である反橋。水面に映る姿と合わせて太鼓橋とも言われる。今日ならチンチン電車の住吉鳥居前駅を降り、 表参道から本殿へ参る途中にある橋だ。
橋が架けられた当時は、海岸がすぐ西側に迫り、 本殿と対岸の入江を結ぶ橋だったと言われている。石柱木造の橋は、淀君の寄進を受け豊臣秀頼が再興させたと伝わる(16世紀末~17世紀最初)。ただ木製の床板や桁の維持は難しかったようで、享和元年(1801)の修復以前は、朽ちて石杭だけが残り、橋とは名ばかりの状態になっていたという。
この絵を描いた 歌川芳瀧(1841~1899)は、修復なった美しい橋を見ていたのだろう。ややデフォルメされた反橋の上を渡ってゆく人の姿が見える。
長さ約20m、幅約5.5m、中央高さ約3.6mの橋は最大斜度48度。以前は横木も階段もなく、足をかける穴だけであったが、「渡るだけでお祓いになる」ことから、 懸命に上り下りする参詣者も多かったとか。その後も時おり修復が加えられ、現在に至っている。


大阪再発KEN記

住吉大社を歩く 〜1800年の歴史を今に伝える〜

明治から大正、昭和へ・・・。近代への歩みを進める大阪。北と南の両御堂界隈にも、歴史の波が押し寄せていた。
住吉大社は、全国に約2300あるという住吉神社の総本社。その歴史は古く、住吉大社鎮座伝承によると、神功皇后摂政11年(211)、神功皇后が住吉大神をお祀りになったのが始まりとされている。
住吉大神とは、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三柱の神さまの総称のこと。 住吉大社には、この三柱の神さまと、神功皇后が祀られている。本殿は 第一本宮から第四本宮まで4社あり、他に摂社4社、末社が26社ある。
現在は海から8km余り内陸にあるが、創建当時は、この地のすぐ西まで海辺が迫っていた。住吉大社は「海の神」であり、遣隋使や9世紀頃まで続いた遣唐使、南蛮貿易で 栄えた中世堺、海上輸送の発達した江戸時代には廻船業者らがここで渡航の安全を祈願してきた。
また住吉浜には 松並木があり、白浜が打ち寄せる風光明媚な場所だったことから、多くの和歌にも詠まれて来た。『伊勢物語』や『土佐日記』、『源氏物語』などにも記述が見える。
治承2年 (1178)には平清盛、住吉社に願文を奉った記録(『山槐記』)もあり、次第に和歌の神としても信仰を集めるようになった。また慶長19年(1614)の大坂冬の陣の折には、徳川家康が住吉社神主邸を本陣にしたという記述もある(『台徳 院殿御宝紀』)など、度々歴史の表舞台にも登場している。
江戸時代には、松尾芭蕉など俳諧などの文人も訪れたという。

大阪故郷(ふるさと)23 〜年中行事や節目のお参り、すみよっさんは心の拠り所

第二次世界大戦中、空襲などの被害には遭わなかった住吉大社。だが昭和9年(1934)の室戸台風では各所で被害が出て、昭和19年(1944)の南海地震により住吉大社の大鳥居が倒壊、昭和25年(1950)のジェーン台風でも境内や末社に被害が出るなど、しばしば天災に見舞われた。
平成元年(1989)「住吉大社と太鼓橋」は大阪みどり百選に選定平成19年(2007)には住吉大社・住吉公園が「美しい日本の歴史的風土百選」に選定、平成23年 (2011) には御鎮座1800年記念大祭が行われた。歴史ある神社であるのはもちろんのこと、都心にある貴重な緑のスポットとしても、訪れる人々の心を癒やしてくれる存在となっている。
令和の現在、初詣には200万人を超える人々が訪れ、1年の幸せを祈願する。5月には全国弓道大会が開催、6月には「御田植神事」、夏には3日間行われる「住吉祭(夏越祓神事・例大祭)」、中秋の「観月祭」では反橋上で住吉踊・舞楽 が奉納される。
こうした年中行事に加え、人生儀礼としての初宮詣、七五三、安産、結婚式、厄年には厄除けと、節目にお参りする人も多い。ご利益を求めて毎月「初辰参り (右下参照)」に訪れる人、五所御前で「五大力」の小石を見つけてお守りにするなど、参り方はそれぞれ。
また一寸法師ゆかりの地でなりきり撮影ができるフォトスポットもあり、すみよっさんは、今も変わらず大阪の人々の心の故郷といえるかもしれない。

なにわびと

石濱 恒夫(いしはま つねお) 〜大阪を愛し、小説からヒット曲の作詞まで幅広く活躍〜

作家であり作詞家、脚本家、そして冒険家。多方面に才能を開花させた石濱恒夫は大正12年(1923)2月、歴史学者の石濱純太郎と、妻恭子の間に生まれた。
父母の仲はよく、温かい家庭で育ったという。住まいは大阪市住吉区、大阪高等学校(旧制)を経て、父と同じ東京帝国大学へ進学。文学部美術史学科で学ぶ。在学中に学徒出陣で召集され、戦車部隊配属となる。そこで一緒だったのが司馬遼太郎である。2人はこの時以来、親交を深めたという。
在学中から父の友人であった織田作之助などの影響を受けて文学を志した石濱は、いとこの小説家・藤澤桓夫(ふじさわたけお)の紹介で川端康成と出会い、大学卒業後に弟子入り、鎌倉の川端邸に住み込み師事した。ある時は住吉大社に川端を案内し、そのときに川端は「反橋」の着想を得たとも言われている。
昭和21年(1946)、23歳で同人誌『文学雑誌』に参加し、小説家として活動を始める。昭和28年(1953)に発表した「らぷそでい.いん・ぶるう」は芥川賞候補となった。
昭和32年(1957)には、同人誌『近代説話』を司馬遼太郎、寺内大吉らと発刊。この頃「大阪詩情 住吉日記・ミナミーわが街」などを発表している。石濱は作詞も手がけ、フランク永井の「大阪ろまん」「大阪ぐらし」など大阪を舞台とした数々のヒット曲を生み出した。 また当時普及しだしたTVドラマの脚本も数多く手がける。
一方、若い頃からヨット・マンとしても知られ、昭和52年(1977) には娘の紅子と共に、ヨットで大西洋を無寄港横断した。大阪の風俗人情を哀感を込めて描く作家と評価され、「大阪芸術賞」を受賞した石濱は、平成16年(2004)1月、肺癌のため に死去。享年80歳。

石濱 恒夫(いしはま つねお) 〜大阪を愛し、小説からヒット曲の作詞まで幅広く活躍〜

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