大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2019 第36号>

浪花百景「住吉高燈籠」


国員(くにかず) 画(大阪城天守閣蔵)


住吉高燈籠

住吉大社は、全国にある住吉神社の総本社。 その灯籠として、また日本初の灯台として鎌倉時代に創建されたのが、この高灯籠とされているが、詳細はわからない。 住吉大社が祀る住吉大神は、海の神様である。 今は海から遠くなっているが、この辺りは住吉津、古くは遣唐使の使節が唐に向けて出発した港だった。 海上交通の要所であったからこそ、灯台も建てられたのだろう。

国員が描いた「住吉高とうろう」の周辺は松林、砂浜には多くの人々が見える。
高灯籠は、夜は船の出入りの目印となり、また昼間は展望台として利用されたという。
市井の人々は、住吉大社にお参りした後、灯籠に登って白砂青松を眺めて、楽しんだのかもしれない。

時代は下って昭和25年(1950)、住吉高灯籠は台風被害に遭い倒壊。 その後、道路拡張工事に伴って昭和49年(1974)、現在の場所に移設・再建された。 灯籠の内部は平成17年(2005)に改修され、現在は資料館として使われている。 住吉公園の西端にひっそりと建つ高灯籠は、かつての美しい住吉津をしのぶよすがとなっている。


大阪再発KEN記

住吉大社界隈 〜知られざる幻の首都・住吉〜

かつて海のそばに建ち、海の守り神であった住吉大社。 その近くに帝塚山古墳があるように、この辺りは古くから発展した地であった。 そして多くの人に親しまれている住吉大社は、実は南北朝の一時期、南朝の行宮(あんぐう)(天皇の仮の御所)として使われていた。 ここでは、歴史の表舞台にあった住吉大社とその周辺スポットを巡ってみる。

鎌倉時代の半ば、天皇が足利尊氏方(北)と吉野方(南)に並び立ち、争ったのが南北朝時代である。 後醍醐天皇(南朝)の次の後村上天皇(延元4年(1339)〜正平23年(1368))は、住吉大社の宮司家である津守氏の住之江殿に移り、ここを住吉行宮とした。 長慶(ちょうけい)天皇(南朝三代)もここで即位する。
いずれはここを首都に・・・・しかし後亀山天皇(南朝四代)が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器を渡したことで南北朝時代は終わりを告げ、住吉が都となることはなかった。
時代は下って明治の終わり頃から、周辺には鉄道が開通する。 帝塚山は交通の便がよく見晴らしのいい住宅地として、市内の豪商たちが邸宅を建てて移り住むようになった。
帝塚山学院ができたのも同じ頃である。 帝塚山を含む聖天山地区は昭和8年(1933)、風致地区に指定された。 これまでに創られた美しい都市景観の保全を目的にしており、緑豊かな高級住宅地は文教エリアとして、現在までその環境が守られている。 住吉大社~帝塚山界隈は、今も散策すると、そこここに歴史の足跡を見ることができる。

大阪故郷(ふるさと)18 〜歴史と祈りのまち、住吉津ものがたり〜

住吉大社が海の神さまを祀る神社なら、住吉津(すみのえのつ)は、大阪湾にある港として、交易・外交には欠かせない存在だった。 ここでは、古くから発展した住吉大社・住吉津周辺の歴史やまちの発展についてたどってみたい。
そもそも「住吉」の地名は平安時代頃まで「すみのえ」と呼ばれており、「墨江」「清江」とも表記された。 遣隋使や遣唐使は、住吉大社で住吉大神に祈りを捧げた後、住吉津から出発し、難波津を経由して隋・唐に向かったのだという(難波津からの場合もあった)。 天平5年(733)の入唐使に贈った歌には「そらみつ大和の国 青丹よし平城の都ゆおし照る難波に下り 住吉の御津に船乗り 直渡り 日の入る国に 遣はさる(後略)」と歌われている(万葉集)。
それから時代は下って平安時代。 京の都に住まう公家・貴族たちが和歌山県の熊野本宮大社へ参詣するようになった。 室町時代以降は武家や庶民も参詣するようになり、その折に通った道が熊野街道である。 同じころ、住吉大社は歌人としても有名な津守氏の影響もあり、和歌神として広く知られるようになり、住吉詣でがさかんになっていた。 住吉大社近くには熊野街道のほか、紀州街道も通っている。 街道沿いには寺院が整備されるようになり、特徴ある石造物も多く作られた。 旧粉浜村の6本の道が交差する「六道の辻」に立つ閻魔(えんま)地蔵もそのひとつ。 戦国時代、天文7年(1538)の作とされ、地蔵が閻魔大王に化身したもので、六道救済の地蔵尊としての側面もあわせもつ。
こうして絶え間なく人々が行き交い、寺院の周りにはお店も増えて、住吉大社周辺は大いに賑わった。 特に戦国時代が終わり、太平の世になった江戸時代以降は、多くの人々がお参りをして暮らしの平安を祈り、かつ観光も楽しんだ。
そうした流れは近現代へと受け継がれ、今でも住吉大社周辺には老舗が軒を連ね、初詣はもちろんはったつさん(初辰参り)などには多くの人が訪れる。

なにわびと

藤澤 桓夫(ふじさわ たけお) 〜大阪を愛し、人々に愛された昭和の人気作家〜

作家・藤澤和夫(ふじさわたけお)の名を知る人は、今は少ないかもしれない。 大大阪と言われる時代、大阪を舞台に200冊以上の作品を書き、人々に愛された小説家。 その人となりを振り返ってみたい。
明治37年(1904)、桓夫は藤沢黄坡(こうは)(後に関西大学初の名誉教授)の長男として、大阪市内に生まれた。 幼い頃から文学好きで、大正12年(1923)旧制大阪高校に入学した頃、すでに作家志望だったという。 高校では友人たちと同人誌を発行。 この頃発表した短編小説『首』は、横光利一や川端康成の目に止まり、賞賛された。 昭和2年(1927)東京帝国大学に入学後は、プロレタリア文学の影響を受けた作品を発表。 しかし昭和5年(1930)には肺病を得て入院、その後長野のサナトリウムに移り、療養しながらも「中央公論」や「新潮」に作品を寄稿する。 夕刊大阪新聞には、大阪を舞台にした最初の新聞小説『街の灯』を連載した。
昭和8年(1933)年に29歳で帰阪、「文藝春秋」「中央公論」に、大阪を舞台にした小説を書き始める。 生き生きとして気品があり、モダンな雰囲気漂う小説は、人々の心をとらえた。 昭和16年(1941)11月から半年間、朝日新聞に連載された『新雪』は大評判となり、後に月丘夢路主演で映画化された。
戦後も、都会的な香りの大衆小説を数多く執筆。 藤澤原作の映画も毎年のように製作された。 昭和30年(1955)、50歳での結婚を機に、住吉大社近くに自宅兼書斎のサロン「西華山房」を建てて移り住む。 ここには作家の川端康成、織田作之助、五味康祐、司馬遼太郎、将棋棋士の大山康晴、プロ野球の監督や選手らが出入りし、歓談したという。
昭和54年(1979)から読売新聞の月曜夕刊に随筆『人生座談』を連載、平成元年(1989)5月に連載終了した翌6月に84歳で亡くなった。 大阪を愛し、住吉で作家活動を続けた藤澤桓夫。 平成27年(2015年)、その功績を称える顕彰碑が「西華山房」跡地に建てられた。 なお「西華山房」の書斎部分は、文学碑のすぐ近くに移設されている。

広岡 浅子(ひろおか あさこ) 〜不断の努力と行動力で近代を生きた女性実業家〜

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