大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2018 第35号>

浪花百景「東横堀と西町奉行所」


大阪市立住まいのミュージアム所蔵「よど川の図」より


東横堀と西町奉行所

18世紀前半の東横堀界隈を描いた「よど川の図」には本町橋 思案橋(現、大手橋)西町奉行所が描かれている。 この絵図の中での市内最古の現役橋の「本町橋」界隈の「いま むかし」を探ってみる。
本町橋は大阪を南北に流れる東横堀川に架かる橋。 天正13年(1585)豊臣秀吉が大坂城を築城する際東横堀の開削に伴って架けたとされ、大坂城の西の玄関口である本町橋は、大坂冬の陣の主戦場の一つとなった。 その後は江戸幕府が管理、大坂城と船場を結ぶ重要な場所となっていた。 橋詰の北東側には享保9年(1724)の大火事以降、西町奉行所が設置されて行政の中心地ともなっていたという。
明治維新の後新政府は西町奉行所を廃止、建物は何度か名称を変え、その後初代大阪府庁舎となった(後に江之子島に移転)。 明治21年(1888)には、その跡地に大阪府立大阪博物場が竣工した。 当時は美術館、図書館、能楽堂、動物艦(天王寺動物園の前身)などがあり大勢の人で賑わったという。
本町橋の橋詰には昭和初期まで荷揚げ場があり、界限には荷物舟が行き交い、また博物場へ出かける人々で、周辺はにぎわっていたのだろう。 現在の本町橋は、本町通が市電道路として拡幅された大正2年(1913)に架け替えられたもので、大阪市内最古の現役橋である。
3連の鋼アーチを石づくりの橋脚で支える重厚な構造、橋脚にはレネッサンス様式の美しい意匠が施され、 平成24年(2012)に大阪市指定文化財となり、今は本町橋BASEなど、新たな水辺の賑わい拠点として、ざまなイベントや社会実験なども行われている。


大阪再発KEN記

本町橋 〜市内最古の橋周辺の賑わいを紐解く〜

東横堀川は、太閤秀吉が大坂城築城の際に外堀として開削したもので、全長約3km。 ここに架けられた本町橋は、徳川家康が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」でも争奪戦が起きた重要な橋であった。 江戸時代には、船場と大坂城を結ぶ重要な中継地点であり、公儀橋の一つとして幕府が直轄管理していたという。
天明7年(1787)の記録によると、当時は橋長約54m、幅員59mの木橋であった。 橋詰の北東側には享保9年(1724)の大火事以降に西町奉行所が設置され、行政の中心地ともなった。 また東側には荷揚げ場として石畳が敷かれ、周辺には油問屋が集まり、西詰には木綿問屋・呉服・古着屋が軒を連ねるなど、商業地としても発展した。
この本町橋と、その上流である農人橋の間で、川は大きなS字に折れ曲がっている。 これは開削時にあった寺を避けたためとも言われているが、水流が急になるため、水難事故が多かったという。 明治に入り、奉行所跡は大阪鎮台となり、さらに大阪裁判所、後に大阪府庁となった。
その頃、明治14年(1881)までに、本町橋は鉄柱を持った木橋に架け替えられた。当時、鉄柱の木橋はまだ珍しく、人々の話題を集めたという。 現在の本町橋は、大正2年(1913)に架けられたもの。明治、大正、昭和と時代が移り、本町橋周辺の風景も少しずつ変わって行くが、そんな中でもやはり、本町橋周辺は大阪の中心地、多くの人がこの橋を行き来する場所であった。

本町橋 〜市内最古の橋周辺の賑わいを紐解く〜 堂島(どうじま)〜天下の台所、大阪の足跡を辿って〜
大阪故郷(ふるさと)17 〜本町橋を中心に再び水都大阪の賑わいを〜

高度成長期時代は、本格的な車社会の到来でもあった。 昭和40年(1965)、東横堀川の上に高架の阪神高速道路が作られ、周囲の風景は一変した。美しいアーチを持つ本町橋も、その上空を高速道路の高架が覆うこととなり、残念ながら少し窮屈そうな景観になった。 とはいえ、ルネッサンス風デザインを施した石造りの橋脚、重厚な橋の魅力は今も変わらない。
本町橋が架けられた当初は、大阪市電が通ることによる道路の拡張などもあったが、自動車渋滞の常態化により昭和44年(1969)3月、大阪市は市電を全廃し、地下鉄ネットワークの拡大へとシフトして行くことになる。 本町橋が架けられて66年経った昭和54年(1979)には、約3年かけて橋の補修と美装化が行われた。
今では「浪速の名橋50選」にも選定されているほか、平成24年(2012)2月には、大阪市の文化財として指定された。 江戸時代には西町奉行所、明治には大阪博物場などがあった本町橋周辺には、現在、大阪商工会議所やマイドームおおさか、大阪産業創造館などの拠点的な施設が集中している。
そしてその周辺には、繊維関係の問屋や大手商社など、さまざまな企業のビルが建ち並ぶほか、東区役所や東警察署といった公共施設もあり、まさに本町橋界隈は、商都大阪の中心エリアの一つといえる。 平成25年(2013)は、本町橋が架けられて100周年。これを機に、大阪商工会議所が呼びかけ、地元住民や周辺店舗、企業等で「本町橋100年会」を設立、毎週の清掃活動や魅力発信事業への取り組みを始めた。
平成27年(2015)5月には、大阪市が本町橋の上流左岸に「本町橋船着場」を整備。記念クルーズや、水辺でのライブ演奏などが随時行われているほか、周辺にはカフェやショップなど、若い世代にも魅力的な店舗が増えている。 本町橋は、江戸時代から近現代にかけての、水辺の賑わい拠点づくりに欠かせないスポットであり、これからも、水都大阪の賑わいを静かに見守り続けるだろう。

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なにわびと

広岡 浅子(ひろおか あさこ) 〜不断の努力と行動力で近代を生きた女性実業家〜

TVの連続テレビ小説「あさが来た」(NHK 2015年)のモデルとなり、一躍脚光を浴びたのが、近代日本を生きた女性実業家・広岡浅子。 その人生は波瀾万丈、まさにドラマチックなものだった。
嘉永2年(1849)京都の豪商・出水三井家に生まれた浅子は、幼い頃から相撲や木登りが好きなおてんばで、学問にも強い興味を持った。 しかし「女に学問はいらない」と読書まで禁じられてしまう。 慶応元年(1865)、浅子は17歳で大坂の豪商 加島屋の当主の次男である広岡信五郎に嫁いだ。
政情不安の折婚家の行く末に危機感を持った浅子は、夫の理解を得て算盤、簿記、店の帳簿などで実学を習得していく。 明治維新新政府に献金を命じられるなどの苦難の中、加島屋の当主が死去。 さらに廃藩置県により大名に貸し付けていた債権回収が困難に。
20歳の浅子は、若くして当主を継いだ正秋、後見人の信五郎とともに経営に参画。 借金の整理や資金の回収に持ち前の行動力で立ち向かい、危機を乗り越える。 明治17年(1884)には、当時新しい事業だった炭鉱業へ新規参入。 炭鉱を傘下におさめた後、浅子は自ら九州の潤野炭鉱へ赴き、鉱夫の元締めと交渉を重ね、生活も共にしながら採掘を監督した。 懐には、常にピストルを偲ばせていたという。
そのかいあって炭坑の産出量は明治30年(1897)に急増、優良炭坑になる。 この経験により、浅子は「七転八起」ならぬ「九転十起生」、苦境でも決して諦めない精神を体得する。 その後、加島銀行、尼崎紡績(現ユニチカ)の設立と、事業は順調に拡大する中、浅子は成瀬仁蔵と出会う。 女子高等教育機関の必要性を説いた彼の著書『女子教育』に感銘を受け、大学設立を全面的に支援。 明治34年(1901)、ついに日本女子大学校が開校する。
その後夫・信五郎の死去を機に、浅子は経営の一線から退き社会活動に専念する。 晩年は、女性のための勉強会も開催したという。 大正8年(1919) 71歳で逝去。 肥後橋にある大同生命大阪本社ビル敷地内には、かつてここに加島屋が店を構えたことを示す石碑が立てられている。

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