大阪NOREN百年会 瓦版
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浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2014 第31号>

浪花百景「四天王寺」


芳雪(よしゆき) 画(大阪城天守閣蔵)


四天王寺

 「釈迦如来 転法輪所 当極楽上 東門中心」の扁額がかけられた四天王寺西門の石鳥居は永仁2年(1294)、

 時の別当忍性が建立したもので国の重要文化財に指定されている。

 扁額に記されているように、平安時代後期の浄土教流行以降、四天王寺西門はその西方の海の彼方にある

 と信じられた極楽浄土の東門であると信仰され、ここから海に沈む夕陽を拝し浄土を思う日想感を修する

 霊地として栄えた。

(「特別展 浪花百景ーいま・むかしー」大阪城天守閣編集)より


大阪むかし再発見記(2)

天王寺〜四天王寺を中心に発展したまち〜


天王寺〜四天王寺を中心に発展したまち〜

 四天王寺は、日本最古の寺院の1つである。時代を経るにつれて、四天王寺を取り囲むように町が形成されていった。四天王寺の通称として天王寺が使われていて、いつしか四天王寺周辺が天王寺と呼ばれるようになったとも言われている。天正11年(1583)、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は大阪城を築城。同時に町づくりにも乗り出し、一向宗徒に焼かれた四天王寺再建を進め、さらに天王寺の町屋を発展させた。大阪冬の陣でまたも四天王寺は焼失したが、松平忠明による市街の復興で再建、また周辺に寺院の多くが集められ、寺町を形成していったという。

 時代は下って明治22年(1889)に天王寺駅が完成、鉄道が開通すると町の様子は大きく変わる。住宅地や学校、天王寺公園、天王寺動物園など公共施設も充実して著しい発展を遂げていった。

 第二次世界大戦末期、昭和20年(1945)の大阪大空襲により多くが灰燼に帰した。しかしその後、大阪の街も復興し、四天王寺も中心伽藍などが再建されている。

 古くは飛鳥時代から太閤さんの時代、そして明治・・・大阪のまちの発展の中心の一つが天王寺であったことが、古地図からも窺い知ることができる。

大阪故郷(ふるさと)13 〜天王寺・歴史文化のまち〜

 天王寺は今も交通の要所であるが、いにしえの時代、かつての都、難波宮(中央区)と現在の堺市を南北に結ぶ古代の官道「難波大道」の通り道でもあった。それだけ歴史・文化の香り高いエリアであると言える。

 その中心が、天王寺公園。明治42年(1909)に開設され、長い歴史を持つ広大な園内には、水の広場、温室など見どころも多彩だ。初夏・秋に約100品種・800種のバラが色鮮やかに咲き、訪れる人の心を和ませてくれる。他にも園内には慶沢園や茶臼山古墳、市立美術館、天王寺動物園などがある。

 このうち慶沢園は住友家本邸の庭園として造られた池泉回遊式庭園で、大阪のど真ん中とは思えない豊かな緑と風情ある名石が、静かなたたずまいを見せている。

 また、市立美術館の敷地はもともと住友家本邸があった場所で、美術館の建設を目的に、市に寄贈されたものだったという。現在では日本・中国の絵画・彫刻・工芸など8000件を超す優れた収蔵品を持ち、中には佐伯祐三、上村松園といった名だたる画家の作品も含まれている。また大阪ゆかりの著名人からの寄贈によるコレクションも数多い。現在では特別展やコレクション展のほか、美術団体の力作を集めた展示などが随時開催されている。

 さらに、園内の旧黒田藩長屋門脇脇に、林芙美子の文学碑もあり、「昔 通天閣のあったころは・・・・・」と、『めし』の一節が刻まれている。芙美子は大阪に暮らす夫婦を描いたこの作品連載中に急逝、これが絶筆となった。

 天王寺動物園は大正15年(1915)、日本で3番目に開園した動物園。現在は約200種900点の動物を飼育している。たとえばサバンナゾーンならアフリカの生息地を調査し、その景観をできるだけ再現した生態的展示で、動物たちのより自然な姿が見られ、都会のオアシス的存在となっている。

 現在、再開発で天王寺の街エリアが注目を集めているが、その賑わいのバックボーンには、古くからの歴史と文化があることを、忘れてはならない。

大阪故郷(ふるさと)13 〜天王寺・歴史文化のまち〜

なにわびと

五代 友厚 〜広い視野を持ち大阪の経済発展に尽力した男〜

 大阪証券取引所前に1人の紳士の銅像がある。近代日本の経済発展を大阪で支えてきた、五代友厚。「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と言われた彼は、大阪の発展を語る時に欠かせない人物である。

 五代友厚は1835(天保6)年、薩摩藩生まれ。 12歳で藩校造士館に入り、文武をおさめる。あるとき藩主島津公から世界地図の模写を命じられた父は、それを友厚にやらせた。その世界地図をきっかけに、友厚は国づくりを考えるようになっていった。長崎海軍伝習所で学んだ後も、藩の貿易業務担当として長崎に駐在。勝海舟、坂本龍馬らとも交流を深めた。

 1865 (慶応元)年、五代は欧州へ渡る。半年間の滞在で、欧州の機械産業や銀行などを精力的に見て回り、産業振興と貿易で日本を発展させたい、との思いを強くして帰国した。

 明治政府成立後、五代は大阪の外国事務掛に任命される。その頃、日本人の無知につけ込んで外国人商人の不正が横行したが、五代は断固たる態度で臨んだ。そして横浜転勤の辞令を機に官を辞し、大阪で民間人として尽力する覚悟をしたのだ。その後の活躍は目覚ましい。五代は鉱山経営などの事業、大阪証券取引所、大阪商法会議所の設立、大阪造幣局の誘致など、大阪の経済発展に大きく貢献した。 1885 (明治18)年9月、 五代は50年の短い生涯を終えた。一般の会葬者は実に約4800人。大阪の恩人として、今もその精神は語り継がれている。

 菩提は、大阪市阿倍野区天王寺に眠っている。

五代 友厚 〜広い視野を持ち大阪の経済発展に尽力した男〜

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