大阪NOREN百年会 瓦版
大阪NOREN百年会 かわら版

浪速・商人・老舗・歴史 大阪「NOREN」百年会 かわら版 <2000 第7号>

大阪百景むかし巡り「大阪駅前」


大阪駅前
昭和13年ごろの大阪駅付近

写真は、昭和初期の大阪駅前である。右は阪急百貨店、正面は建設工事中の3代目大阪駅、その左向うは同じく工事中の中央郵便局、そして左手前は、土地区画整理により、木造家屋が除去された跡地の梅田阪神ビル建設現場で、よく見ると板囲いの8枚の看板は「阪神百貨店建築場」と読める。 停留所に市電の列。その右、阪急百貨店前に3台の民営青バスと、市営の銀バス(2台目)が見え、タクシーが東向きに走っている。季節は冬であろうか。人影はいずれも黒っぽく、市電の左に停車中の銀バス付近の1人は白い肩掛けの婦人らしい。 初代大阪駅は明治7年、中央郵便局裏の西梅田地区に開設された。明治34年に2代目大阪駅が現在地に新築移転。大正後期から昭和戦前期にかけて進められた第1次都市計画事業とともに、(1)国鉄の高架化、(2)3代目大阪駅、(3)駅前広場と地下道、(4)御堂筋と地下鉄、(5)駅前土地区画整理事業、(6)梅田阪神ビルと阪神電鉄の地下乗り入れ等の建設工事が同時施工で進められ、大阪の玄関口梅田は、文字どおり近代大阪建設へ、高らかに槌音を響かせていた。 こうして諸工事進行中の昭和12年に日中戦争が勃発、大阪の街も戦時体制下に入り、3代目大阪駅は3階まで完成して工事中断、梅田阪神ビルも、調達した約1万トンの鋼材を軍需用に献納したあと、地下と地上4階までの第1期工事を終って中段、やがて大阪駅は、昭和20年の空襲を受けて激しい戦火に包まれてゆくのである。


今に生きる、名言・家訓(4)

「人間万事について学ぶ」勝海舟語録


「人間万事について学ぶ」勝海舟語録

幕末、徳川幕府の代表として江戸城明け渡しの大任を果たした勝海舟に、自伝「永川清話」がある。明治32年まで生きた勝海舟晩年の語録であるが、内容は、幕末の動乱から近代日本を開いてゆくその渦中を、生死ぎりぎりで生き抜いた凄い男の人生訓で、人間の生き方を豪快に言い放って示唆に満ちている。


だれでも責任をおわせられなければ、仕事のできるものではない。おれが維新の際に、江戸城引き渡しの談判をしたのも、つまり将軍家から至大の権力を与えられ、無限の責任を負わされたので、思う存分手腕を振るうことができたから、あのとおり事もなく済んだので、それに官軍の参謀は老西郷であったから、ちゃんとおれの腹を見ぬいてくれたので、大いによかった。・・・「敵に味方あり、味方に敵あり」といって、互いに腹を知りあった日には、敵味方の区別はないので、いわゆる肝胆相照らすとはつまりこのことだ。


解説不要の明快な言葉である。むろん、だれでも責任者にせよと言っているのではない。能力に応じた責任を負わせなさい。さすれば、敵を味方にするなど、責任を負わせた方も、負わされた方も予期せぬ道が開けて大きな成果を得るはずだと考えている。

世間は生きている。理屈は死んでいる。

個人も、家庭も、職場も、街も、国も常に動き止まず生きており、問題は次々に生じる。しかもこの問題は生きものでどの類型にも当てはまらないのだが、人びとはこれを勘ちがいして、待ち合わせの理屈という名の辞典で解こうとするが、容易に解けず捌けず混乱する。では事が生じて間髪を入れず問題を解くカギは何か。 勝海舟は俺を見よという。理屈を捨て損得勘定を捨てて常に懸命に生き抜いておれば、いかなる応用問題をも解ける力が備わるのだ、というのである。

後進の書生らは、机上の学問ばかりにこらず、さらに人間万事について学ぶ、その中に存する一種というべからざる妙味をかみしめて、しかる後に、机上の学問を活用する方法を考え、また一方には、心胆を練って、確乎不抜の大節を立てるように心掛けるがよい。・・・かえすがえすも後進の書生に望むは、奮ってその身を世間の風浪に投じて、浮かぶか沈むか、生きるか死ぬかの処まで泳いで見ることだ。

言葉はじつに激烈だが、いかにも世界史に残る明治維新の扉を強く押し開いた人らしく、清々しい気力に満ちて感動的である。 なお、書名の「永川清話」は、勝海舟が晩年を過した、東京の赤坂永川町における「清話」の意である。


勝海舟(「勝海舟自伝ー永川清話」より)


うんちく辞典(7)

大正前後期一「楽天地」

明治の中頃から大正期にかけての、
市内の主な娯楽施設、イベントを並べてみる。 明治21年(1888)有宝池眺望閣
  22年(1888)偕楽園商業倶楽部
         有楽園凌雲閣
         浪速富士山
  24年(1891)パノラマ館
  36年(1903)第5回内国勧業博覧会
  44年(1911)芦辺倶楽部
  45年(1912)「ルナパーク」開園
大正 2年(1913)楽天地
   3年(1914)築港大潮湯
   4年(1915)市岡パラダイス
   14年(1925)北港潮湯
高層建築あり、遊園地あり、庭園あり、健康ランドあり、と多種多様で娯楽施設の要素としては、現代と変わるところがない。ただ、技術の発達によって、設備が少し複雑になっているという点が異なっているといえるが、高いところへ登って下界を眺めたり、温泉につかって座敷で宴会したり、その楽しみ方や、時間の過ごし方は同じようなものである。 大正初めにオープンした楽天地もその一種といえる。楽天地は、前回紹介した千日前の芦辺倶楽部の東向に建てられた複合娯楽施設である。映画館、劇場の他に、ローラースケート場や水族館まであり、一日飽きずに楽しめたという。 また、半円形の建物はその外周を、らせん階段でぐるぐる回りながら登って、屋上の展望台に行けるようになっていた。そして、夜には、イルミネーションで夜の街に明るく照らし出され、見物人も多かったという。 この楽天地は、昭和の初めには姿を消し、かわって、昭和7年(1932)10月には大阪歌舞伎座がオープンしているが、そこにはアイススケート場が設けられてあり、人気を集めていたという。 一度で二度おいしいという、娯楽の醍醐味がここにも生きていた。


楽天地
楽天地・イルミネーションに浮かび上がる楽天地 右側に楽天地が建てられた
右側に楽天地が建てられた(左側は活動写真館などが入った芦辺倶楽部) 楽天地の跡に建てられた大阪歌舞伎座
楽天地の跡に建てられた大阪歌舞伎座。現在はプランタンなんばが建つ。

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